2010.03.31 (Wed)
4月の魚はしょっぱいぜ
まいったね。
4月バカには、まいったね。
あす4月1日と言えば、年度始めの日。新学期や新年度で新入生や新社会人が新天地で新生活をはじめるという興味シンシンな日だ。
しかし、これは日本に限っての話。欧米をはじめとする多くの国々で、新学期ってのは9月ごろ始まるからな。
世界的にはやはり、4月1日といえばやはり、エイプリル・フールということになる。
ご当地フランスにも、もちろんこの習慣は存在する。それどころか、どうもエイプリル・フールの起源はフランスにあるらしいぜ。
ま、そのへんはおいおい触れるとしてだ。日本とフランスでは、ちょいと少し趣向が違うのよ。
まず、呼び方が違う。フランスではこの日を「ポワソン・ダブリル」と言うんだぜ。英語にすれば fish of April ってなところか。直訳すると「4月の魚」だな。
なぜこういう呼び方をするかと言うと、ウソを付かれて信じ込み、4月バカだと明かされてええっと驚いたときにみんなが口をパクパクさせるからだ。その様子がいかにも魚みたいだってんで、そういう名前が付いたんだとさ。
なーんて、うっそーん。
番長からのプチ・ポワソン・ダブリルだぜ。
日本ではエイプリル・フールと言えばなんでもウソをついていい日、って位置づけだよな。
フランスでも基本は変わらんが、ウソをついてもいいというよりは、ウソを含めてイタズラをしても許される日、人をからかってもいい日、って感じなんだな。
子どもたちの間で4月1日に行われる定番のイタズラが、魚の絵を描いた紙にテープなんかを付け、誰かの背中にこっそり貼るってヤツだ。

(仏サイト「linternaute」より、イタズラに使われる魚の例)
日本でもあるよな、「バカ」とか「僕はパンツをはいていません」とか書いた紙をこっそり張り付けるイタズラ。ひょっとするとフランスから伝わったものだったりして。まあ、誰でも思いつきそうだけどもよ。
この魚張り付けの風習自体は七夕みたいなもんで、子どもたち以外でやってる例はあまり見かけない。むしろ、他愛ないウソを付いて親しい人を騙すという、日本と同じようなやり方の方が主流だな。
さてその起源なんだが。かつてフランスでは4月1日から新年が始まっていて、人々は互いにプレゼントを贈りあう習慣があったそうだ。
ところが1564年、フランス国王シャルル9世が「1月1日を新年とする」と決めちまった。なんだよ勝手なことしてんじゃねえよと民衆は反発。変わらず4月1日にプレゼントを贈り続けた。
でもまあ一応国王の手前もある。「え? いやいや新年の贈り物じゃないかだなんて、滅相もない。単なるジョークですよ、ジョーク」ってなことになって、ワッハッハと笑えるようなものを贈るようになったそうだ。紙の魚はそこから来ているらしい。
と言うのも、当時のキリスト教徒、要するに大多数のフランス国民は、宗教的な理由から肉食を禁じられていた。でも魚はOKだったんだな。だから魚は大切な人への贈り物としてとても一般的だったんだそうだ。
今の日本で言えば、桐箱をあけたら中から紙に書いたハムが出てきたよ、ってな感じかな。
ただこの話、諸説あって、細かいところはいろいろ違ってるのよ。
そのシャルル9世が新年の改正に反対した人々を見せしめに殺害したので忘れないように始めただとか。いつまでたっても4月1日に新年のお祝いをしている連中をバカにしたのが始まりだとか。
魚を張り付ける風習にしても、フランスでは通常4月1日から漁が解禁になる、つまり魚が世間に流通していない時期だから使われるという話もある。また、このときに使われる魚ってのがサバなんだが、サバはこの時期釣り糸さえ垂れればバカみたいに引っかかるからだとかいう説もあるんだと。
さすがに4月バカだけあって、起源もウソっぽい話ばっかだな。しかも、どれを取ってもいまひとつ面白くないというか、ピンと来ない感じがまた何とも言えんね。
とまあ、そんなポワソン・ダヴリル。店頭には魚の形をしたチョコレートが並ぶ。このチョコってのがモノによっちゃなかなか凝ってて、でっかい魚のチョコの中が空洞になっていて、ちっちゃい魚のチョコがたくさん入っていたりするんだな。
人によっては、魚をあしらったカードを友人に送ったりするそうだ。番長は見たことねえけど。
あと、テレビがニセモノのニュースを流したりだとか、インターネットにジョークサイトが現れたりとかいうのは、もちろんあるぜ。
だが、総じて言えば、さして盛り上がってるという感じはしないな。
と言うのも、フランスでは暦の関係で、4月1日ってのは毎年必ず復活祭の近くにくる。こいつは移動祝日ってヤツで、「3月22日から4月25日の間のいずれかの日曜日」なのよ。
復活祭はキリスト教世界ではクリスマスに並ぶ一大イベントだ。どうしたってその前じゃかすんじまうのよ。
さっきチョコレートの話をしたが、正直言って魚のチョコより、復活祭に使われるタマゴ型のチョコの方がずっとメジャーな存在だぜ。
言ってみりゃ、ドカベン山田太郎に対する微笑三太郎みたいな役回りだな。なに、わからない? うーん、嵐の桜井くんに対する大野くんみたいなところか。
いや、まいったね。
イマイチしょっぱいポワソン・ダヴリル。魚は単なる塩味より、しょうゆとわさびでいただきてえところだな。

4月バカには、まいったね。
あす4月1日と言えば、年度始めの日。新学期や新年度で新入生や新社会人が新天地で新生活をはじめるという興味シンシンな日だ。
しかし、これは日本に限っての話。欧米をはじめとする多くの国々で、新学期ってのは9月ごろ始まるからな。
世界的にはやはり、4月1日といえばやはり、エイプリル・フールということになる。
ご当地フランスにも、もちろんこの習慣は存在する。それどころか、どうもエイプリル・フールの起源はフランスにあるらしいぜ。
ま、そのへんはおいおい触れるとしてだ。日本とフランスでは、ちょいと少し趣向が違うのよ。
まず、呼び方が違う。フランスではこの日を「ポワソン・ダブリル」と言うんだぜ。英語にすれば fish of April ってなところか。直訳すると「4月の魚」だな。
なぜこういう呼び方をするかと言うと、ウソを付かれて信じ込み、4月バカだと明かされてええっと驚いたときにみんなが口をパクパクさせるからだ。その様子がいかにも魚みたいだってんで、そういう名前が付いたんだとさ。
なーんて、うっそーん。
番長からのプチ・ポワソン・ダブリルだぜ。
日本ではエイプリル・フールと言えばなんでもウソをついていい日、って位置づけだよな。
フランスでも基本は変わらんが、ウソをついてもいいというよりは、ウソを含めてイタズラをしても許される日、人をからかってもいい日、って感じなんだな。
子どもたちの間で4月1日に行われる定番のイタズラが、魚の絵を描いた紙にテープなんかを付け、誰かの背中にこっそり貼るってヤツだ。

(仏サイト「linternaute」より、イタズラに使われる魚の例)
日本でもあるよな、「バカ」とか「僕はパンツをはいていません」とか書いた紙をこっそり張り付けるイタズラ。ひょっとするとフランスから伝わったものだったりして。まあ、誰でも思いつきそうだけどもよ。
この魚張り付けの風習自体は七夕みたいなもんで、子どもたち以外でやってる例はあまり見かけない。むしろ、他愛ないウソを付いて親しい人を騙すという、日本と同じようなやり方の方が主流だな。
さてその起源なんだが。かつてフランスでは4月1日から新年が始まっていて、人々は互いにプレゼントを贈りあう習慣があったそうだ。
ところが1564年、フランス国王シャルル9世が「1月1日を新年とする」と決めちまった。なんだよ勝手なことしてんじゃねえよと民衆は反発。変わらず4月1日にプレゼントを贈り続けた。
でもまあ一応国王の手前もある。「え? いやいや新年の贈り物じゃないかだなんて、滅相もない。単なるジョークですよ、ジョーク」ってなことになって、ワッハッハと笑えるようなものを贈るようになったそうだ。紙の魚はそこから来ているらしい。
と言うのも、当時のキリスト教徒、要するに大多数のフランス国民は、宗教的な理由から肉食を禁じられていた。でも魚はOKだったんだな。だから魚は大切な人への贈り物としてとても一般的だったんだそうだ。
今の日本で言えば、桐箱をあけたら中から紙に書いたハムが出てきたよ、ってな感じかな。
ただこの話、諸説あって、細かいところはいろいろ違ってるのよ。
そのシャルル9世が新年の改正に反対した人々を見せしめに殺害したので忘れないように始めただとか。いつまでたっても4月1日に新年のお祝いをしている連中をバカにしたのが始まりだとか。
魚を張り付ける風習にしても、フランスでは通常4月1日から漁が解禁になる、つまり魚が世間に流通していない時期だから使われるという話もある。また、このときに使われる魚ってのがサバなんだが、サバはこの時期釣り糸さえ垂れればバカみたいに引っかかるからだとかいう説もあるんだと。
さすがに4月バカだけあって、起源もウソっぽい話ばっかだな。しかも、どれを取ってもいまひとつ面白くないというか、ピンと来ない感じがまた何とも言えんね。
とまあ、そんなポワソン・ダヴリル。店頭には魚の形をしたチョコレートが並ぶ。このチョコってのがモノによっちゃなかなか凝ってて、でっかい魚のチョコの中が空洞になっていて、ちっちゃい魚のチョコがたくさん入っていたりするんだな。
人によっては、魚をあしらったカードを友人に送ったりするそうだ。番長は見たことねえけど。
あと、テレビがニセモノのニュースを流したりだとか、インターネットにジョークサイトが現れたりとかいうのは、もちろんあるぜ。
だが、総じて言えば、さして盛り上がってるという感じはしないな。
と言うのも、フランスでは暦の関係で、4月1日ってのは毎年必ず復活祭の近くにくる。こいつは移動祝日ってヤツで、「3月22日から4月25日の間のいずれかの日曜日」なのよ。
復活祭はキリスト教世界ではクリスマスに並ぶ一大イベントだ。どうしたってその前じゃかすんじまうのよ。
さっきチョコレートの話をしたが、正直言って魚のチョコより、復活祭に使われるタマゴ型のチョコの方がずっとメジャーな存在だぜ。
言ってみりゃ、ドカベン山田太郎に対する微笑三太郎みたいな役回りだな。なに、わからない? うーん、嵐の桜井くんに対する大野くんみたいなところか。
いや、まいったね。
イマイチしょっぱいポワソン・ダヴリル。魚は単なる塩味より、しょうゆとわさびでいただきてえところだな。

スポンサーサイト
2010.03.29 (Mon)
なんか違うぜ、日仏のミシュラン・ガイド
まいったね。
ミシュラン・ガイドの違いには、まいったね。
フランスに対して、グルメの国だという印象を持ってる人は多いんじゃないかな。
なんたってフランス料理と言えば、世界三大料理にも数えられるほどだ。ソースを駆使した料理法は、ただ味がいいというばかりじゃねえ。難度が高いことでも知られている。
日本からも修行に来るシェフが絶えねえよな。いや、日本に限らねえ。料理専門学校のル・コルドン・ブルーなんかは世界中から学生を集めてるぜ。
ヨーロッパではそれぞれの国に固有の食文化があるが、ごく客観的に言って、フランスほどの高みに達しているところとなると他にはないだろう。イギリスは問題外として、ドイツの料理はブルスト(ソーセージ)だシュニッツェル(カツ)だとうまいはうまいんだが、もひとつ洗練されてはいねえ印象。オランダでいちばんイケるのは旧植民地インドネシアの料理だし、スイスと言っても毎日チーズフォンデュを食うわけにゃいくまい。
となれば残すは南欧諸国。番長は正直言って、イタリアやスペイン料理の方が好きだ。
ところが、気位の高いフランス人シェフに言わせると「イタリア料理なんてのは家庭料理に過ぎないよ」ってなことになる。ずいぶんお高くとまっちゃいるが、確かにフランス料理の方が手は込んでるよな。で、スペインは連中にとっちゃヨーロッパじゃねえ。ピレネーの向こうはアフリカと言ってな。
ま、それはそれとして、同じヨーロッパの連中から見ても、フランス料理ってのは一目置かれる存在ではあるようだ。
フランスは世界で最も多くの観光客を集める国なんだそうだが、エッフェル塔や凱旋門、あるいはルーブル美術館といったスポットばかりでなく、食を目当てに来る人も相当数に上るようだ。
そんなフランスのグルメ大国としての名声を確かなものにしているのが、ミシュラン・ガイドだってことに、異論はねえんじゃないかな。
説明するまでもねえだろう、価値あるレストランを三つまでの星で格付けする例の冊子だ。
2007年に欧米以外では初めてとなる東京版、09年には京都・大阪版も出版された。特に東京はパリよりも星付きレストランの数が最初から多く、2010年版ではついに3つ星レストランの数でもパリを上回り、大きな話題を集めたよな。日本の外食レベルはやはり世界最高だったと溜飲を下げた関係者も多かったようだが、フランス人なんぞに和食がわかるのかという批判もあった。
そのミシュランガイドだが、フランス版と日本版では内容が違うことを、アンタはご存じかな?
日本版のミシュランは1店あたり2ページを使い、全編カラーページ。お店の内装写真がばっちりキレイに掲載されていて、雰囲気がわかりやすい。どんな料理を出すのかを紹介する文章も丁寧だ。
そこへ行くとフランスのミシュランガイドは、辞書のような風情だ。写真はまったく載っていない。店名と開店時間や時期(フランスはレストランもたっぷりバカンスを取るからな)、平均的な料金など必要最低限のデータしか書かれておらず、紹介する文章もほとんどは2、3行だ。
ただし、かなり網羅的になっている。レストランごとにページ構成がされている東京版と違い、フランス版は町(都市)が一つのくくりになっている。Aで始まる町名からアルファベット順。で、各町ごとに主立ったレストランがズラっとまとめて書かれているという寸法だ。店の場所を記した地図も町ごとにつくられている。
そんなつくりだから、片手じゃ持てないほど分厚い。
なに、番長そいつは比較対象が違うんじゃねえかと。その辞書みたいなヤツは「フランス版」なんだから、比べるとしたらまだ存在しないけど「日本版」じゃなきゃおかしい。「東京版」と比べるなら「パリ版」じゃねえのかと。
アンタ詳しいな。まったくその通りだ。
説明しよう。ミシュランの赤いガイドには、国版と都市版がある。前者は「イタリア」「ドイツ」「オランダ」など、後者は「ニューヨーク」「ロンドン」「パリ」といった具合だな。
もし今後「ミシュランガイド・ジャポン」ができたら、それは辞書風のレイアウトになってるのかもしれねえ。
とは言え、都市版でもやっぱり、日本のは異色だぜ。
他の都市版は、1ページにつき2つの店を載せる場合がほとんど。星をとったレストランなど、1ページぶち抜きで掲載している場合もあるが、数は少ない。東京版が一つの店にたっぷり2ページを必ず割いているのに比べると、ずいぶんとせせこましい印象だ。
ここで、2010年版の星付きレストランの数を比較してみようか。
ごらんの通り、3つ星レストランの数こそ大して違わないが、2つ星と1つ星はそれぞれ東京の方が3倍近く多くなっている。
ますます疑問だよな。パリ版って30~40ページ程度のぺらっぺらな本なのか?
いいや。本の厚みは東京版と比べても遜色ねえぜ。
なにが違うのか。
パリ版には、というか東京と京都・大阪版以外のミシュランガイドには、星の付けられていないレストランがたくさん載ってるのよ。
星付きレストランのみで本をつくっているのは、日本だけだ。
良い言い方をすれば、東京版は星付きのレストランだけで冊子を成立させるだけの数があるということだ。
それにしても、なんでそんなに数が違うのか?
理由の一つは明確だ。東京の方が圧倒的にレストランの総数が多いのよ。
アメリカの日刊紙ニューヨーク・タイムズがミシュラン社の話として報じたところによると、ミシュランの評価対象になるようなレストランが東京に16万軒あるのに対し、パリには1万3000軒しかないそうだ。なんと12倍超の差よ。
そりゃ都市圏人口で比べても東京はパリの3倍くらいあるが、それでも多いよなあ。星付きだって多いわけだ。
ただ、もう一つ別の理由があるような気がするんだよな。
さっき書いたように、ミシュランのパリ版には基本的に1ページ2店の割合で店が紹介されている。対して、東京版は2ページで1店。ということは、ざっくり言って、パリ版は東京版に比べて4倍の密度の情報が掲載されているということだ。
ミシュランの東京版がはじめて出たときの報道によると、東京版のための調査は出版に先立つこと1年半前から始められた。調査員は全5人で、ヨーロッパ人3人、日本人2人の混成チームだった。
で、東京はあまりにレストランの数が多いんで、あらかじめ名の知れたレストランを抽出してリスト化したっていうんだな。その数約1300店。そこから計150店のレストランに星を付け、掲載したんだそうだ。
これ、もし星なしも含めて4倍の情報を載せようと思えば、600店を載せなきゃならねえことになる。となれば最初の1300店のうち、2つに1つは掲載されるってことだよなあ。そいつはミシュランのプライドが許さなかったんだろう。
意地悪な見方をすれば、だ。4倍の数の店を調べるには4倍の費用がかかる。少ないコストでたくさん本を売るのが、経営者としてはいちばん儲けが出るやり方だ。だったら知名度の高いレストランをそれなりに取り上げて体裁を取り繕っておくのが一番楽だよな。
だってだぜ。初めての東京版は「2008年版」だ。現時点で既に「2010年版」が出ている。ってことは最初の出版から丸2年が過ぎたわけだろ。ハナっから完璧なものを求めるのはちと酷だろうが、しかし2年もあればだいぶ調査店を増やすことができそうだよな。
実際、1つ星以上のレストランの数は年々増えている。08年版で150店だったのが09年版では173店、10年版では197店になった。
ところが編集方針は変わらず、無印店は相変わらず影も形もない。東京版には相変わらず密度の薄い情報しか載ってねえんだ。つまり、東京版はもう星付きしか載せないと決めてかかってるんだな。
どうも妙じゃねえか。ミシュランは評価の基準は世界共通ってのを売りにしてるんだから、さっさとレイアウトを1ページあたり2店に変更して、無印店も載せて、欧米と同じスタイルにしろってのよ。
余計なカネがかかるからやってないだけなんじゃねえのかい?
もっとも、ミシュランは公的機関じゃあない。単なる一企業、タイヤ会社だ。利益を追求するのは、当たり前田のセサミハイチってヤツだがな。
日本だけ特別ってのが、どうも番長は気に入らないぜ。
ところでよ。
東京にはパリの12倍の数のレストランがあるんだよな。
だとしたら、3つ星レストランの数がパリより1つしか多くないってのは問題なんじゃねえか?
2つ星と1つ星も、3倍程度じゃまずいんじゃねえか?
そんなことで、世界に冠たるグルメシティとか言ってたら、フランス人にせせら笑われちまうのがオチだぜ。
いや、まいったね。
フランス人は、食えねえな!

ミシュラン・ガイドの違いには、まいったね。
フランスに対して、グルメの国だという印象を持ってる人は多いんじゃないかな。
なんたってフランス料理と言えば、世界三大料理にも数えられるほどだ。ソースを駆使した料理法は、ただ味がいいというばかりじゃねえ。難度が高いことでも知られている。
日本からも修行に来るシェフが絶えねえよな。いや、日本に限らねえ。料理専門学校のル・コルドン・ブルーなんかは世界中から学生を集めてるぜ。
ヨーロッパではそれぞれの国に固有の食文化があるが、ごく客観的に言って、フランスほどの高みに達しているところとなると他にはないだろう。イギリスは問題外として、ドイツの料理はブルスト(ソーセージ)だシュニッツェル(カツ)だとうまいはうまいんだが、もひとつ洗練されてはいねえ印象。オランダでいちばんイケるのは旧植民地インドネシアの料理だし、スイスと言っても毎日チーズフォンデュを食うわけにゃいくまい。
となれば残すは南欧諸国。番長は正直言って、イタリアやスペイン料理の方が好きだ。
ところが、気位の高いフランス人シェフに言わせると「イタリア料理なんてのは家庭料理に過ぎないよ」ってなことになる。ずいぶんお高くとまっちゃいるが、確かにフランス料理の方が手は込んでるよな。で、スペインは連中にとっちゃヨーロッパじゃねえ。ピレネーの向こうはアフリカと言ってな。
ま、それはそれとして、同じヨーロッパの連中から見ても、フランス料理ってのは一目置かれる存在ではあるようだ。
フランスは世界で最も多くの観光客を集める国なんだそうだが、エッフェル塔や凱旋門、あるいはルーブル美術館といったスポットばかりでなく、食を目当てに来る人も相当数に上るようだ。
そんなフランスのグルメ大国としての名声を確かなものにしているのが、ミシュラン・ガイドだってことに、異論はねえんじゃないかな。
![]() | ミシュランガイド東京 2010 日本語版 (MICHELIN GUIDE TOKYO 2010 Japanese) (2009/11/20) 不明 商品詳細を見る |
説明するまでもねえだろう、価値あるレストランを三つまでの星で格付けする例の冊子だ。
2007年に欧米以外では初めてとなる東京版、09年には京都・大阪版も出版された。特に東京はパリよりも星付きレストランの数が最初から多く、2010年版ではついに3つ星レストランの数でもパリを上回り、大きな話題を集めたよな。日本の外食レベルはやはり世界最高だったと溜飲を下げた関係者も多かったようだが、フランス人なんぞに和食がわかるのかという批判もあった。
そのミシュランガイドだが、フランス版と日本版では内容が違うことを、アンタはご存じかな?
日本版のミシュランは1店あたり2ページを使い、全編カラーページ。お店の内装写真がばっちりキレイに掲載されていて、雰囲気がわかりやすい。どんな料理を出すのかを紹介する文章も丁寧だ。
そこへ行くとフランスのミシュランガイドは、辞書のような風情だ。写真はまったく載っていない。店名と開店時間や時期(フランスはレストランもたっぷりバカンスを取るからな)、平均的な料金など必要最低限のデータしか書かれておらず、紹介する文章もほとんどは2、3行だ。
ただし、かなり網羅的になっている。レストランごとにページ構成がされている東京版と違い、フランス版は町(都市)が一つのくくりになっている。Aで始まる町名からアルファベット順。で、各町ごとに主立ったレストランがズラっとまとめて書かれているという寸法だ。店の場所を記した地図も町ごとにつくられている。
そんなつくりだから、片手じゃ持てないほど分厚い。
なに、番長そいつは比較対象が違うんじゃねえかと。その辞書みたいなヤツは「フランス版」なんだから、比べるとしたらまだ存在しないけど「日本版」じゃなきゃおかしい。「東京版」と比べるなら「パリ版」じゃねえのかと。
アンタ詳しいな。まったくその通りだ。
説明しよう。ミシュランの赤いガイドには、国版と都市版がある。前者は「イタリア」「ドイツ」「オランダ」など、後者は「ニューヨーク」「ロンドン」「パリ」といった具合だな。
もし今後「ミシュランガイド・ジャポン」ができたら、それは辞書風のレイアウトになってるのかもしれねえ。
とは言え、都市版でもやっぱり、日本のは異色だぜ。
他の都市版は、1ページにつき2つの店を載せる場合がほとんど。星をとったレストランなど、1ページぶち抜きで掲載している場合もあるが、数は少ない。東京版が一つの店にたっぷり2ページを必ず割いているのに比べると、ずいぶんとせせこましい印象だ。
ここで、2010年版の星付きレストランの数を比較してみようか。
パリ版: 3つ星…10軒 2つ星…13軒 1つ星…41軒 計64軒
東京版: 3つ星…11軒 2つ星…42軒 1つ星…144軒 計197軒
ごらんの通り、3つ星レストランの数こそ大して違わないが、2つ星と1つ星はそれぞれ東京の方が3倍近く多くなっている。
ますます疑問だよな。パリ版って30~40ページ程度のぺらっぺらな本なのか?
いいや。本の厚みは東京版と比べても遜色ねえぜ。
なにが違うのか。
パリ版には、というか東京と京都・大阪版以外のミシュランガイドには、星の付けられていないレストランがたくさん載ってるのよ。
星付きレストランのみで本をつくっているのは、日本だけだ。
良い言い方をすれば、東京版は星付きのレストランだけで冊子を成立させるだけの数があるということだ。
それにしても、なんでそんなに数が違うのか?
理由の一つは明確だ。東京の方が圧倒的にレストランの総数が多いのよ。
アメリカの日刊紙ニューヨーク・タイムズがミシュラン社の話として報じたところによると、ミシュランの評価対象になるようなレストランが東京に16万軒あるのに対し、パリには1万3000軒しかないそうだ。なんと12倍超の差よ。
そりゃ都市圏人口で比べても東京はパリの3倍くらいあるが、それでも多いよなあ。星付きだって多いわけだ。
ただ、もう一つ別の理由があるような気がするんだよな。
さっき書いたように、ミシュランのパリ版には基本的に1ページ2店の割合で店が紹介されている。対して、東京版は2ページで1店。ということは、ざっくり言って、パリ版は東京版に比べて4倍の密度の情報が掲載されているということだ。
ミシュランの東京版がはじめて出たときの報道によると、東京版のための調査は出版に先立つこと1年半前から始められた。調査員は全5人で、ヨーロッパ人3人、日本人2人の混成チームだった。
で、東京はあまりにレストランの数が多いんで、あらかじめ名の知れたレストランを抽出してリスト化したっていうんだな。その数約1300店。そこから計150店のレストランに星を付け、掲載したんだそうだ。
これ、もし星なしも含めて4倍の情報を載せようと思えば、600店を載せなきゃならねえことになる。となれば最初の1300店のうち、2つに1つは掲載されるってことだよなあ。そいつはミシュランのプライドが許さなかったんだろう。
意地悪な見方をすれば、だ。4倍の数の店を調べるには4倍の費用がかかる。少ないコストでたくさん本を売るのが、経営者としてはいちばん儲けが出るやり方だ。だったら知名度の高いレストランをそれなりに取り上げて体裁を取り繕っておくのが一番楽だよな。
だってだぜ。初めての東京版は「2008年版」だ。現時点で既に「2010年版」が出ている。ってことは最初の出版から丸2年が過ぎたわけだろ。ハナっから完璧なものを求めるのはちと酷だろうが、しかし2年もあればだいぶ調査店を増やすことができそうだよな。
実際、1つ星以上のレストランの数は年々増えている。08年版で150店だったのが09年版では173店、10年版では197店になった。
ところが編集方針は変わらず、無印店は相変わらず影も形もない。東京版には相変わらず密度の薄い情報しか載ってねえんだ。つまり、東京版はもう星付きしか載せないと決めてかかってるんだな。
どうも妙じゃねえか。ミシュランは評価の基準は世界共通ってのを売りにしてるんだから、さっさとレイアウトを1ページあたり2店に変更して、無印店も載せて、欧米と同じスタイルにしろってのよ。
余計なカネがかかるからやってないだけなんじゃねえのかい?
もっとも、ミシュランは公的機関じゃあない。単なる一企業、タイヤ会社だ。利益を追求するのは、当たり前田のセサミハイチってヤツだがな。
日本だけ特別ってのが、どうも番長は気に入らないぜ。
ところでよ。
東京にはパリの12倍の数のレストランがあるんだよな。
だとしたら、3つ星レストランの数がパリより1つしか多くないってのは問題なんじゃねえか?
2つ星と1つ星も、3倍程度じゃまずいんじゃねえか?
そんなことで、世界に冠たるグルメシティとか言ってたら、フランス人にせせら笑われちまうのがオチだぜ。
いや、まいったね。
フランス人は、食えねえな!

2010.03.27 (Sat)
ヌヌーさんの伝統 18世紀パリの赤ん坊は95%が乳母預かり
まいったね。
省エネ育児の伝統には、まいったね。
以前、フランスの子育ては日本に比べると放任主義だということを、何回かにわたって書かせてもらった。
生後2ヶ月にもなれば赤ん坊はヌヌーさん(乳母・子守り)に任せて仕事に戻る。赤ん坊は両親とは別室に寝かせ、泣こうがわめこうが関知しない。両親は二人でお出かけ。晩飯は質素、冷凍食品もフル活用、ってな具合にな。
ものの本によると、こういった省エネ育児、あるいは手抜き育児ってのは、決して今に始まった話じゃなく、18世紀にはすでに広く行われていたって言うんだな。それも貴族に限った話じゃなく、職人や商人といったすべての平民の間でみられた現象だと。
書かれていたのは、エリザベート・バダンテールの「母性という神話」(鈴木晶訳)だ。
ひょっとすると、おや番長ずいぶんと時代物を持ち出してきたね、こちとら先刻承知だよってな御仁もいるかもしれねえな。1980年にフランスで出版されたこの本は、フェミニズムを代表する古典の一つだ。ボーヴォワール「第二の性」以来の偉業だと褒め称える人もいる。
だが、ここでは小難しい話はさておかせてもらうとしよう。
この本の趣旨はきわめて明快だ。「母性愛? 母性本能? そんなもの存在しません」。これだけよ。テーマ自体に興味がある人は、どうぞ本を手にとってやってくんな。
番長にとって面白かったのは、この命題を証明するために、18世紀の母親たちがいかに子どもに対して興味がなかったかについて、バダンテール先生が過去の文献をひもときながら実例を挙げている部分だ。ヌヌーさんこと乳母ってのは、フランスではかなり古くから存在したらしいのよ。
番長もびっくり。ヌヌーさんの伝統ってのは、フランスではそんなに昔からあったんだな。
とは言え、16世紀の終わりまでは、乳母を雇えるのは貴族に限られていたそうだ。そう、貴族は乳母を自分の家に雇い入れ、子どもの世話をさせ、母乳を与えさせていた。
それで自由になった時間に何をしていたのかと言えば、社交界に参加していた。社交ダンスを踊って社交メシを食い、社交ラブにいそしんでいた。要するに遊んでたんだな。いや、遊びと言うと語弊があるか。貴族にとっては、社交こそがまさに仕事だったのかもしれんからな。
ともあれ、赤ん坊を抱いてサロンに通うわけにはいかねえ。赤ん坊はやっかい払いをされるがごとく、乳母に託されたんだそうだ。
ほかにも本の中では、上流階級の女性たちが授乳しないことを正当化するために使った口実が紹介されているんだが、これがなかなかのものなのよ。
オイオイ、ずいぶんとまあボロッカスに言ってくれるじゃねえかよ。
それだけじゃあねえ。当時、精液は母乳を変質させ、だめにしてしまうと信じられていたんだそうだ。てことはつまり、夜のお楽しみを優先すれば授乳はできなくなる、ということだな。
そして実際に、夜の授乳の方を優先させた連中が多かったんだとさ。
月亭可朝師匠は「ボインは~ 赤ちゃんが吸うためにあるんやで~ お父ちゃんのもんと違うんやで~」と歌って80万枚のレコードを売り上げた。この大ヒット曲「嘆きのボイン」は子どもたちの間で大流行し、親たちはそんな下品な歌をうたうなと気色ばんで止めたわけだが、当時のフランス貴族連中たちと比べりゃなんとも常識的な歌だったってことになるな。もっとも可朝師匠、70歳にしてストーカー規制法違反容疑で逮捕された経験をお持ちだけどな。
話を戻そう。
17世紀には、乳母はブルジョワジーの間にも広がっていく。
ただ、ここでの乳母は貴族とは違うのよ。パリやリヨンといった都会に住んでる親が、地方に住んでいる乳母の元へ数年にわたって赤ん坊を預ける、つまりは「里子」なんだな。
たとえばパリからだと、ノルマンディーやブルゴーニュへと送られたそうだ。TGVが走っている今でさえ一日仕事だが、当時はそれこそ人類未到の地へ行くような感覚だったことだろう。
18世紀になると、里子の習慣はさらに職人や商人といった都会のすべての階級に浸透する。
その数がすごい。
警察庁長官がハンガリーの女王に送った報告として筆者が示しているところでは。1780年、パリの人口は80万~90万人程度。1年間に生まれる子どもの数は2万1000人だが、そのうち母親の手で育てられるのはわずかに1000人のみ。住み込みの乳母に育てられるのがやはり1000人いて、残りの1万9000人は里子に出されていたという。
てことは、なんと90%の赤ちゃんが里子へ出され、5%が住み込みの乳母に育てられていたということだ。
筆者はリヨン警察長官の言葉も引用していて、それによると、人口約20万人のリヨンでは年間6000人の子供が産まれるが、両親によってよい乳母に預けられる子どもはせいぜい1000人で、他の子どもたちは里子に出される。母親が自分で育てる子どもの数は、数えることもできないって言うんだな。
リヨンでもパリと同様、母親が自分で子どもを育てることの方がむしろ例外だったわけだ。
もっとも、18世紀当時のフランスにおいて、人口の80%は農民だった。その農民はほとんどが子どもを手元に置いて育てたそうだから、この現象は都会の住民に限った話だ。
それにしても、9割が里子ってのは尋常な数字じゃねえぜ。
なぜこんなことになったのか。筆者曰く、母親に愛情がなかったからではない。生存本能が母性本能に優先したから、だそうだ。
絹職工も、パン屋も、肉屋も、当時のフランス人女性はみな夫の仕事を手伝っていた。利益を少しでも上げるためには、子育てに時間を割いている余裕はなかったというんだな。
たとえばパン屋の場合、夫がパンを焼くとすれば、妻は店に出てパンを売らなきゃならねえ。妻が子育てをするなら店員を別に雇わなければならないが、それだったら子どもを里子に出した方が安上がりだったというわけだ。
このへん、現代社会にも通じるところがあるんじゃねえか。
女性が自分の能力を発揮するために仕事へ出るのは歓迎すべきことだが、経済的にやむを得ず働くって場合も少なくないだろう。特にフランスは、日本と比べて低所得者からもきっちり税金をとっていく国だ。働く女性が多いのも、背に腹は代えられねえって部分がかなりあるように思う。
おっと、話はこれだけじゃあ終わらねえのよ。
どれだけ安い乳母のところへ出すにしろ金はかかる。里子に出すほどの余裕すらない家庭もあるわな。筆者のバダンテール先生が例に引いているのは帽子屋だ。夫を常時手伝わなければならないほどには仕事は忙しくはないが、生活の足しにするために内職やパートをした。刺繍工になったり、市場で野菜や果物の売り子をしたそうだ。それでも、とても乳母に払えるような収入はなかったので、赤ん坊は手元に置かざるを得なかった。
ところが、こういう最貧困層の方が、赤ん坊の生存率は高かったというんだな。
乳児死亡率に関する筆者のデータを紹介しよう。
つまり、4人に1人以上の赤ん坊が、1歳の誕生日を迎えるまでに死んでいたということだ。
そんな状況下でも、母親が自分で育てた子どもの死亡率は、里子に出された子どものほぼ半分だったというんだな。
たとえば、御存知ジャンヌ・ダルクが火あぶりになったことでおなじみのルーアンという都市の場合、1777年から89年までの間に里子に出された子どもの死亡率は38.1%。これに対して、同期間に母親のもとで育った子どもの死亡率は18.7%だった。
リヨンでは、1785年から1788年まで 自分で育てた子どものうち1年以内に死んだのは16%。他方、リヨンの医師ジリベールによると、「リヨン市民たちは、ブルジョワも職工も、自分たちの子どもの3分の2を、雇われ乳母のもとで失っている」。3分の2と言えば66%だ。
なんでそんなことになるのか。
当時の里子ってのが、とんでもなくお粗末なものだったからよ。
以下にずいっと見てもらおうか。
ひでえ。阿鼻叫喚の地獄絵図だな。
これだけヒドい環境に置かれていたんだとすれば、里子に出された赤ん坊の死亡率が2倍ってのも、そりゃむべなるかなってな話だ。
しかし、だったら親は、なんで里子になんか出したんだ?
さっき、経済的な理由が挙げられていたよな。仕事をするためにやむを得ず里子に出すんだ、と。だが、カネを払った挙句に子どもが死んじまうんだったら何の意味もねえ、まだしも出さない方がマシじゃねえかよ。カネはどっかから借りてくることもできるだろうが、赤ん坊はその子1人っきり、代わりはいねえんだぜ。
当時だって、インターネットこそないが、井戸端会議の類はあったんだろう。あの家で里子に出した子が死んだ、あそこの家でも里子に出たまま帰ってこない、なんてクチコミでそれなりに情報共有はできただろう。
にも関わらず、パリで9割が里子を出してたって言うんだぜ。
そんなひどい環境なのに、親たちはなぜ子どもを出したのか。
バダンテール先生の説明にまたまたびっくりよ。
「無意識の堕胎」だというんだ。
一人くらい死んでも構わないってくらいに子どもが軽視されていた。親の関心は唯一、胸を張って子どもを厄介払いするにはどうしたらいいかにしか向けられていなかった。つまり、死んでしまってもいいや、くらいの気持ちで里子に出してたっていうのよ。
どれだけ無関心だったのか。過去の資料から筆者が探してきた証拠は以下のとおりだ。
ウーム、確かにあったかい家族の姿は感じられないねえ。というか、社会全体に子どもを庇護するって視点がなかったようだな。
こういう例からバダンテール先生は、当時の母親が赤ん坊を里子に出したのは、実は経済的な理由よりも単なる軽視、無関心さによるところが大だった、と結論づける。
生まれてからの4年間と言えば、いちばんかわいい時期じゃねえかよなあ。
子ども軽視を裏付けるもう一つの資料が、捨て子の多さだ。筆者の資料によれば、1773~90年の間、捨て子の数は年平均5800人。おそらくこれはフランス全土の数字だろうが、同じ時期にパリで一年間に生まれる子どもが2万から2万5千人くらいだったそうだから、確かに多いわな。
この本の結論部分にはこんなことが書かれている。
なあアンタ、これを読んでどう思った。
17、18世紀の女性たちを引き合いに、現代の女性たち、母親たちに説教をくれている。そう思ったんじゃあないかな?
実はまったく逆なのよ。
17、18世紀と同じように、現代の世界に住む私たちにも母性本能なんてものはない。だから安心して外で働いていいのよ、と言ってるんだな。私には母性ってものが欠けてるんじゃないかしらなんて、良心の呵責を感じる必要はないんだよ、そんなものはもともとないんだから、ってな。
この文脈の読み取り方の差こそが、まさに日本人とフランス人の間に横たわるギャップ、なんじゃねえかな。
フランス人の育児に対する考え方、その放任ぶりや寛容さ、ひょっとすると少子化が克服されたことについても、理解するカギはこのへんにあるのかもしれねえぜ。
ところで、なんだってバダンテール先生は、シャカリキになって母性本能を否定してるんだと思う?
実は18世紀に一人のおっさんが颯爽とフランスに現れて、ここまで見てきたような子どもに対する無関心を叱りつけ、社会の空気を一変させちまったからだ。
このおっさん、名をジャン・ジャック・ルソーという。1762年に「エミール」という教育論を出し、その後200年以上にわたってフランス社会の倫理規範を縛ることになった。
すなわち、子どもはかけがえのない存在で、母性愛こそ至上という考え方だな。出版されるや、たちまちのうちに上から下まですべての社会を席巻。現在でも根っこの部分は全世界で引き継がれていると言っていいだろう。
バダンテール先生は、そいつをひっくり返すために、今回紹介した本を書いたのよ。
面白いのは2人の違いだ。
ルソーは、子どもを愛することこそが人間本来の自然な姿だ、と説いた。
バダンテールは、人間は自然に自発的に子どもを愛するようにはできていないんだ、と説いた。
さてどっちが本当なのかね?
おそらく、どっちも本当なんだ。
この二つの考え方ってのは、そうやってすげ替え可能な程度のものなんだ、ってことよ。歴史的な事実というのはおそらく一つしかない。だが、読み手によってまったく逆の意味になる。まったく逆の意図に使われる、ってことだな。
実際フランスでは、バダンテール先生たちの手によって女性らしさという概念がいちど徹底的にたたき壊されたんで、最近になって揺り戻しがきて、母性を見直そうという声が徐々に強まりつつあるようだ。
だがな、専業主婦なんてものには価値がないだとか、いやいや専業主婦こそが女性のあるべき姿だとか、そういうのはどっちもイデオロギーなのよ。番長に言わせりゃ、巨人ファンと阪神ファンくらいの違いしかねえ。あんまり杓子定規にならないでほしいぜ。
長い間女性は、特に結婚・出産後、仕事をしたいと思ってもできなかった。それはおかしい。できるような環境を整えるべきだろう。特に日本はその点で、まだまだ発展途上だな。
ところがフランスでは逆に、専業主婦でいることがすごく肩身の狭いことになっちまってる。それもおかしい。男女を問わず、仕事をせずに家庭に入るという選択肢はあってしかるべきじゃねえかよ、なあ。
いや、まいったね。
日本人がフランスから学ぶべきなのは、あんまり理屈に縛られんなよという、反面教師的なところなんじゃねえかな。

省エネ育児の伝統には、まいったね。
以前、フランスの子育ては日本に比べると放任主義だということを、何回かにわたって書かせてもらった。
生後2ヶ月にもなれば赤ん坊はヌヌーさん(乳母・子守り)に任せて仕事に戻る。赤ん坊は両親とは別室に寝かせ、泣こうがわめこうが関知しない。両親は二人でお出かけ。晩飯は質素、冷凍食品もフル活用、ってな具合にな。
ものの本によると、こういった省エネ育児、あるいは手抜き育児ってのは、決して今に始まった話じゃなく、18世紀にはすでに広く行われていたって言うんだな。それも貴族に限った話じゃなく、職人や商人といったすべての平民の間でみられた現象だと。
書かれていたのは、エリザベート・バダンテールの「母性という神話」(鈴木晶訳)だ。
![]() | 母性という神話 (ちくま学芸文庫) (1998/02) エリザベート バダンテール 商品詳細を見る |
ひょっとすると、おや番長ずいぶんと時代物を持ち出してきたね、こちとら先刻承知だよってな御仁もいるかもしれねえな。1980年にフランスで出版されたこの本は、フェミニズムを代表する古典の一つだ。ボーヴォワール「第二の性」以来の偉業だと褒め称える人もいる。
だが、ここでは小難しい話はさておかせてもらうとしよう。
この本の趣旨はきわめて明快だ。「母性愛? 母性本能? そんなもの存在しません」。これだけよ。テーマ自体に興味がある人は、どうぞ本を手にとってやってくんな。
番長にとって面白かったのは、この命題を証明するために、18世紀の母親たちがいかに子どもに対して興味がなかったかについて、バダンテール先生が過去の文献をひもときながら実例を挙げている部分だ。ヌヌーさんこと乳母ってのは、フランスではかなり古くから存在したらしいのよ。
乳母を雇うという習慣はフランスではひじょうに古く、乳母の紹介所がパリに初めて開かれたのは十三世紀のことである。この時代には、こうした現象はもっぱら貴族階級の家庭に限られていた。子どもを乳母の手に委ねるという習慣は十八世紀には一般化し、乳母が不足するほどまでになった。
(p50)
番長もびっくり。ヌヌーさんの伝統ってのは、フランスではそんなに昔からあったんだな。
とは言え、16世紀の終わりまでは、乳母を雇えるのは貴族に限られていたそうだ。そう、貴族は乳母を自分の家に雇い入れ、子どもの世話をさせ、母乳を与えさせていた。
それで自由になった時間に何をしていたのかと言えば、社交界に参加していた。社交ダンスを踊って社交メシを食い、社交ラブにいそしんでいた。要するに遊んでたんだな。いや、遊びと言うと語弊があるか。貴族にとっては、社交こそがまさに仕事だったのかもしれんからな。
ともあれ、赤ん坊を抱いてサロンに通うわけにはいかねえ。赤ん坊はやっかい払いをされるがごとく、乳母に託されたんだそうだ。
ほかにも本の中では、上流階級の女性たちが授乳しないことを正当化するために使った口実が紹介されているんだが、これがなかなかのものなのよ。
・感受性の鋭い人は赤ん坊の泣き声によって神経をやられてしまう
・女は肉体的に弱いから子どもに乳を与えるべきではない
・赤ん坊に乳房を出すのは滑稽だ
・乳が乳房から漏れている状態は不潔だ
・子どもをかわいがることは無粋だ
オイオイ、ずいぶんとまあボロッカスに言ってくれるじゃねえかよ。
それだけじゃあねえ。当時、精液は母乳を変質させ、だめにしてしまうと信じられていたんだそうだ。てことはつまり、夜のお楽しみを優先すれば授乳はできなくなる、ということだな。
そして実際に、夜の授乳の方を優先させた連中が多かったんだとさ。
月亭可朝師匠は「ボインは~ 赤ちゃんが吸うためにあるんやで~ お父ちゃんのもんと違うんやで~」と歌って80万枚のレコードを売り上げた。この大ヒット曲「嘆きのボイン」は子どもたちの間で大流行し、親たちはそんな下品な歌をうたうなと気色ばんで止めたわけだが、当時のフランス貴族連中たちと比べりゃなんとも常識的な歌だったってことになるな。もっとも可朝師匠、70歳にしてストーカー規制法違反容疑で逮捕された経験をお持ちだけどな。
話を戻そう。
17世紀には、乳母はブルジョワジーの間にも広がっていく。
ただ、ここでの乳母は貴族とは違うのよ。パリやリヨンといった都会に住んでる親が、地方に住んでいる乳母の元へ数年にわたって赤ん坊を預ける、つまりは「里子」なんだな。
たとえばパリからだと、ノルマンディーやブルゴーニュへと送られたそうだ。TGVが走っている今でさえ一日仕事だが、当時はそれこそ人類未到の地へ行くような感覚だったことだろう。
18世紀になると、里子の習慣はさらに職人や商人といった都会のすべての階級に浸透する。
その数がすごい。
警察庁長官がハンガリーの女王に送った報告として筆者が示しているところでは。1780年、パリの人口は80万~90万人程度。1年間に生まれる子どもの数は2万1000人だが、そのうち母親の手で育てられるのはわずかに1000人のみ。住み込みの乳母に育てられるのがやはり1000人いて、残りの1万9000人は里子に出されていたという。
てことは、なんと90%の赤ちゃんが里子へ出され、5%が住み込みの乳母に育てられていたということだ。
筆者はリヨン警察長官の言葉も引用していて、それによると、人口約20万人のリヨンでは年間6000人の子供が産まれるが、両親によってよい乳母に預けられる子どもはせいぜい1000人で、他の子どもたちは里子に出される。母親が自分で育てる子どもの数は、数えることもできないって言うんだな。
リヨンでもパリと同様、母親が自分で子どもを育てることの方がむしろ例外だったわけだ。
もっとも、18世紀当時のフランスにおいて、人口の80%は農民だった。その農民はほとんどが子どもを手元に置いて育てたそうだから、この現象は都会の住民に限った話だ。
それにしても、9割が里子ってのは尋常な数字じゃねえぜ。
なぜこんなことになったのか。筆者曰く、母親に愛情がなかったからではない。生存本能が母性本能に優先したから、だそうだ。
絹職工も、パン屋も、肉屋も、当時のフランス人女性はみな夫の仕事を手伝っていた。利益を少しでも上げるためには、子育てに時間を割いている余裕はなかったというんだな。
たとえばパン屋の場合、夫がパンを焼くとすれば、妻は店に出てパンを売らなきゃならねえ。妻が子育てをするなら店員を別に雇わなければならないが、それだったら子どもを里子に出した方が安上がりだったというわけだ。
このへん、現代社会にも通じるところがあるんじゃねえか。
女性が自分の能力を発揮するために仕事へ出るのは歓迎すべきことだが、経済的にやむを得ず働くって場合も少なくないだろう。特にフランスは、日本と比べて低所得者からもきっちり税金をとっていく国だ。働く女性が多いのも、背に腹は代えられねえって部分がかなりあるように思う。
おっと、話はこれだけじゃあ終わらねえのよ。
どれだけ安い乳母のところへ出すにしろ金はかかる。里子に出すほどの余裕すらない家庭もあるわな。筆者のバダンテール先生が例に引いているのは帽子屋だ。夫を常時手伝わなければならないほどには仕事は忙しくはないが、生活の足しにするために内職やパートをした。刺繍工になったり、市場で野菜や果物の売り子をしたそうだ。それでも、とても乳母に払えるような収入はなかったので、赤ん坊は手元に置かざるを得なかった。
ところが、こういう最貧困層の方が、赤ん坊の生存率は高かったというんだな。
乳児死亡率に関する筆者のデータを紹介しよう。
十七、十八世紀のフランスでは、子どもの死はありふれたことだった。F・ルブランが挙げている数字によると、一歳未満の幼児の死亡率はつねに二五パーセントを大きく上回っている。フランス全土の幼児死亡率は、たとえば一七四〇年から一七四九年までが二七・五パーセント、一七八〇年から一七八九年までが二六・五パーセントである。
(p125)
つまり、4人に1人以上の赤ん坊が、1歳の誕生日を迎えるまでに死んでいたということだ。
そんな状況下でも、母親が自分で育てた子どもの死亡率は、里子に出された子どものほぼ半分だったというんだな。
たとえば、御存知ジャンヌ・ダルクが火あぶりになったことでおなじみのルーアンという都市の場合、1777年から89年までの間に里子に出された子どもの死亡率は38.1%。これに対して、同期間に母親のもとで育った子どもの死亡率は18.7%だった。
リヨンでは、1785年から1788年まで 自分で育てた子どものうち1年以内に死んだのは16%。他方、リヨンの医師ジリベールによると、「リヨン市民たちは、ブルジョワも職工も、自分たちの子どもの3分の2を、雇われ乳母のもとで失っている」。3分の2と言えば66%だ。
なんでそんなことになるのか。
当時の里子ってのが、とんでもなくお粗末なものだったからよ。
以下にずいっと見てもらおうか。
いちばん貧しい家の子どもたちは、まず、田舎へ連れていかれるまでに、長旅の過酷な試練に耐えなければならない。医師ブカンによると、ろくに覆いもない荷馬車にすし詰めにされる。あまりに大勢詰め込むので、運の悪い乳母は歩いてついていかなくてはならなかった。赤ん坊は、寒気や暑気、風や雨にさらされ、吸うものといったら、乳母の、ろくに何も食べず、疲れきっているために熱くなった乳しかないのだった。いちばん虚弱な子どもたちはこのような待遇に耐えることはできなかった。出発してから数日後に、周旋屋が親のもとに死んだ子を連れてくることも珍しくなかった。
M・ガルダンは、リヨンあるいはパリの警察の報告書にしるされている、こうしたひどい輸送状態を物語るいくつかの逸話を紹介している。ある周旋屋は小さな馬車で赤ん坊を六人運んでいるうち、眠ってしまい、一人の赤ん坊が落ちて、車輪の下敷きになって死んだことに気付かなかった。ある仲介人は七人の赤ん坊を預かったが、一人なくしてしまい、その子がどうなったのか、だれにもわからなかった。また、三人の赤ん坊を預かったある老女は、子どもたちをどこへ連れていくべきかを忘れてしまった。
(p109)
旅の試練(季節によって五パーセントから一〇パーセントがそれで死んだ)に耐えて生き残ったとしても、それで不幸が終わったわけではない。その理由の第一は、乳母自身のひどい状態である。(中略)
ジリベールによれば、彼女たちは一日の大部分、家から離れた畑で、額に汗して働く。「そのあいだ、赤ん坊は完全におきざりにされ、罪人のように縛りつけられ、尿と糞にまみれ、体じゅう蚊にさされている……赤ん坊が飲む乳は、体を酷使したために熱くなった、黄色っぽい、漿液の多い、にがい乳だ。また、おそろしい事故が赤ん坊を墓の一歩手前まで追いやるのだ」
こうした貧しい乳母が病気であることもしばしばあった。ろくに何も食べないので体が弱くなっていて、町で梅毒をもらってきていたり、疥癬や瘰癧や壊血病にかかっていた。彼女たちの病気は乳を変質させ、赤ん坊に菌をうつした。
(p110)
医者ロランは、何時間も、時には何日間も、いやそれ以上も、自分の糞尿につかって腐りかけている子どもの悲惨な姿を描いている。乳母は、時には何週間も、赤ん坊の着ているものや、下に敷いていある藁を取りかえなかった。
(p112)
ひでえ。阿鼻叫喚の地獄絵図だな。
これだけヒドい環境に置かれていたんだとすれば、里子に出された赤ん坊の死亡率が2倍ってのも、そりゃむべなるかなってな話だ。
しかし、だったら親は、なんで里子になんか出したんだ?
さっき、経済的な理由が挙げられていたよな。仕事をするためにやむを得ず里子に出すんだ、と。だが、カネを払った挙句に子どもが死んじまうんだったら何の意味もねえ、まだしも出さない方がマシじゃねえかよ。カネはどっかから借りてくることもできるだろうが、赤ん坊はその子1人っきり、代わりはいねえんだぜ。
当時だって、インターネットこそないが、井戸端会議の類はあったんだろう。あの家で里子に出した子が死んだ、あそこの家でも里子に出たまま帰ってこない、なんてクチコミでそれなりに情報共有はできただろう。
にも関わらず、パリで9割が里子を出してたって言うんだぜ。
そんなひどい環境なのに、親たちはなぜ子どもを出したのか。
バダンテール先生の説明にまたまたびっくりよ。
「無意識の堕胎」だというんだ。
一人くらい死んでも構わないってくらいに子どもが軽視されていた。親の関心は唯一、胸を張って子どもを厄介払いするにはどうしたらいいかにしか向けられていなかった。つまり、死んでしまってもいいや、くらいの気持ちで里子に出してたっていうのよ。
どれだけ無関心だったのか。過去の資料から筆者が探してきた証拠は以下のとおりだ。
・赤ん坊は「プパール」と呼ばれていたが、これは人形を表す「プペ」という言葉と同じ意味からきた呼称だった。赤ん坊はおもちゃとして扱われ、大人たちは遊びに飽きると興味を失った。
・医学の世界に小児科という言葉が生まれるのは1872年。子どもの特殊性に対する医学的な意識が見られるようになるのは18世紀後半からで、それまでは子どもの世話と言えば女性の仕事だった。子どもは病状を言葉で説明できないため、診療を断られることもあった。
・文学の中でも、18世紀前半まで、子どもに対しては一切関心が払われなかった。
・子どもに対する無関心は、たとえば家庭の記録である家計簿に現れている。当時の家計簿には、家長である父親が家族に関するあらゆる出来事を記録し論評していたが、子どもの死に対しては何の言葉も付されていないことがほとんど。
・当時、5歳以下の子どもの葬式、埋葬には、親は参列しなかった。まれに参列しても片親がせいぜい。
ウーム、確かにあったかい家族の姿は感じられないねえ。というか、社会全体に子どもを庇護するって視点がなかったようだな。
こういう例からバダンテール先生は、当時の母親が赤ん坊を里子に出したのは、実は経済的な理由よりも単なる軽視、無関心さによるところが大だった、と結論づける。
母親が子どもを放棄したせいだ、と言っても言いすぎではない。ひとたび乳母に預けてしまうと、親たちは子どもの運命にたいして関心をもたなかったのだ。四年間にたったの一度も息子の消息をたずねなかったタレーラン夫人は、けっして例外ではない。
(中略)
四年というのは、子どもが乳母のもとで暮らす期間のちょうど平均である。十五ヵ月から十八ヵ月、あるいは二十ヵ月で離乳したのちも、子どもたちは親の家に帰れなかった。乳母は離乳ののちも、三歳か四歳まで、あるいはもっと長く、子どもの面倒をみた。
この間じゅうずっと、親たちは遠い所にいる子どもの運命のことをあまり考えていたとは思われない。親が子どもに会いにくることは、ひじょうに稀だった。時には、子どもが元気かどうかたずねるために、手紙を出すこともあった。乳母たちは、司祭に代筆してもらい、かならず安心させる返事を出し、追加の金を要求した。母親はその返事に安堵して、それ以上何もたずねなかった。それは、無関心のためだったり、あまりの貧しさのため、里子のことを忘れていたいと思ったからだった。
(p114)
生まれてからの4年間と言えば、いちばんかわいい時期じゃねえかよなあ。
子ども軽視を裏付けるもう一つの資料が、捨て子の多さだ。筆者の資料によれば、1773~90年の間、捨て子の数は年平均5800人。おそらくこれはフランス全土の数字だろうが、同じ時期にパリで一年間に生まれる子どもが2万から2万5千人くらいだったそうだから、確かに多いわな。
この本の結論部分にはこんなことが書かれている。
私たちは今、十八世紀に存在していたのと同じ状況に直面しているのではないだろうか。はじめの三十ヵ月間、家で子どもの面倒を見るよりも、外で働くことを選ぶ現代の女性たちと、十七、十八世紀に、自分で子どもの世話をすることを拒んで、生まれるとすぐに子どもを乳母に預けていた、生活にゆとりがある女性たちや裕福な女性たちとを比較して考えてみることができるのではないだろうか。
(p338)
なあアンタ、これを読んでどう思った。
17、18世紀の女性たちを引き合いに、現代の女性たち、母親たちに説教をくれている。そう思ったんじゃあないかな?
実はまったく逆なのよ。
17、18世紀と同じように、現代の世界に住む私たちにも母性本能なんてものはない。だから安心して外で働いていいのよ、と言ってるんだな。私には母性ってものが欠けてるんじゃないかしらなんて、良心の呵責を感じる必要はないんだよ、そんなものはもともとないんだから、ってな。
この文脈の読み取り方の差こそが、まさに日本人とフランス人の間に横たわるギャップ、なんじゃねえかな。
フランス人の育児に対する考え方、その放任ぶりや寛容さ、ひょっとすると少子化が克服されたことについても、理解するカギはこのへんにあるのかもしれねえぜ。
ところで、なんだってバダンテール先生は、シャカリキになって母性本能を否定してるんだと思う?
実は18世紀に一人のおっさんが颯爽とフランスに現れて、ここまで見てきたような子どもに対する無関心を叱りつけ、社会の空気を一変させちまったからだ。
このおっさん、名をジャン・ジャック・ルソーという。1762年に「エミール」という教育論を出し、その後200年以上にわたってフランス社会の倫理規範を縛ることになった。
すなわち、子どもはかけがえのない存在で、母性愛こそ至上という考え方だな。出版されるや、たちまちのうちに上から下まですべての社会を席巻。現在でも根っこの部分は全世界で引き継がれていると言っていいだろう。
バダンテール先生は、そいつをひっくり返すために、今回紹介した本を書いたのよ。
面白いのは2人の違いだ。
ルソーは、子どもを愛することこそが人間本来の自然な姿だ、と説いた。
バダンテールは、人間は自然に自発的に子どもを愛するようにはできていないんだ、と説いた。
さてどっちが本当なのかね?
おそらく、どっちも本当なんだ。
この二つの考え方ってのは、そうやってすげ替え可能な程度のものなんだ、ってことよ。歴史的な事実というのはおそらく一つしかない。だが、読み手によってまったく逆の意味になる。まったく逆の意図に使われる、ってことだな。
実際フランスでは、バダンテール先生たちの手によって女性らしさという概念がいちど徹底的にたたき壊されたんで、最近になって揺り戻しがきて、母性を見直そうという声が徐々に強まりつつあるようだ。
だがな、専業主婦なんてものには価値がないだとか、いやいや専業主婦こそが女性のあるべき姿だとか、そういうのはどっちもイデオロギーなのよ。番長に言わせりゃ、巨人ファンと阪神ファンくらいの違いしかねえ。あんまり杓子定規にならないでほしいぜ。
長い間女性は、特に結婚・出産後、仕事をしたいと思ってもできなかった。それはおかしい。できるような環境を整えるべきだろう。特に日本はその点で、まだまだ発展途上だな。
ところがフランスでは逆に、専業主婦でいることがすごく肩身の狭いことになっちまってる。それもおかしい。男女を問わず、仕事をせずに家庭に入るという選択肢はあってしかるべきじゃねえかよ、なあ。
いや、まいったね。
日本人がフランスから学ぶべきなのは、あんまり理屈に縛られんなよという、反面教師的なところなんじゃねえかな。
