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2010.04.30 (Fri)

深い因縁アルじぇりあ 移民国家フランス(3)

 まいったね。
 アルジェリアとフランスを巡る歴史には、まいったね。


 フランスにいる移民は、主に第一次大戦後に来たヨーロッパ系と、第二次大戦後に来たアラブ・アフリカ系に分かれるというのは、以前の記事で触れたとおりだ。もちろん厳密に分けられるわけじゃねえんだが、おおむねそう考えて間違いない。
 このアラブ・アフリカ系というのは、フランスの旧植民地国から来たってのがほとんどだ。なかでも多いのは、北アフリカにあって地理的に近い、モロッコ・チュニジア・アルジェリアのマグレブ3国になる。
 そのほか、モーリタニア・セネガル・マリ・ギニア・コートジボワール・ニジェール・ブルキナファソ・ベナンといった、西アフリカにある元フランス領の国々から来る移民も少なくない。と言っても、日本人にはもひとつなじみの薄い国が多いかな。
 パリ・ダカールラリーは知ってんだろ。世界一過酷なレースと言われるアレよ。その終点、ダカールはセネガルの首都だ。アンタ、2002年にあったサッカーの日韓ワールドカップを覚えてるかい? あんときのセネガルはベスト8に進出する大活躍を見せたんだが、その1次リーグ初戦で相対したのが、優勝候補だったフランスなのよ。旧宗主国を破ったセネガルの熱狂は大変なものだったそうだ。
 それからコートジボワール、これなんかは国名がそのままフランス語だもんな。「象牙海岸」って意味だ。大航海時代に象牙が売買されたからよ。ついでに奴隷もな。それからマリってのはかつてこの地域に一大帝国を築いた国で、ユネスコの世界遺産を国内に4カ所抱えてるんだが、最近は遺跡見学に飽き足らないフランス人たちがエコツーリズムのために押し寄せている。
 さらにアフリカには、コンゴ共和国・中央アフリカ共和国・ガボン・チャド・コモロ・セーシェル・ジブチ・マダガスカルと、旧フランス領がまだまだいくつもある。こうした国々からの移民というのももちろんフランスにはいる。もっとも、マグレブ3国なんかに比べりゃ圧倒的に数は少ないようだ。


 こんな風に、あまたあるアフリカの旧フランス領なんだが、なかでもフランスにとって特別な存在がある。アルジェリアだ。
 アルジェリアは、他のマグレブ諸国と同様、フランスと隣接している。地中海を挟んではいるが、南仏のマルセイユからアルジェリアの首都アルジェまでの距離は、パリまでの距離とほぼ同じくらいでしかない。
 そのアルジェリアは1830年、フランスに侵略された。こいつはフランスの歴史上、植民地史上では画期的な出来事と言える。18世紀のフランスはルイジアナなど北米に植民地を持っていたが、イギリスとの間の植民地戦争でことごとく負けるわけだ。で、フランス革命が起き、ご存じナポレオン・ボナパルトが現れてと、本国がごちゃごちゃしている間に海外のフランス領はすべてなくなってしまうんだな。
 このアルジェリア侵略は、フランスが新たな植民地支配へと乗り出す第一歩だったわけだ。上につらつらと並べ上げた各植民地は、みなアルジェリアの後でフランス領になった。

 フランスがアルジェリアを狙ったのは、鉄鉱石を筆頭に資源が豊富だったからだ。
 フランスの工業はアルジェリアの富を吸い上げる形で発展した。イギリスにとってのインドみたいなもんだな。
 たとえばフランス全土を走る鉄道なんてのも、この時代にアルジェリアの鉄を使って敷設されたものだ。それが今じゃフランス版新幹線のTGVという形で、フランスの主力輸出商品の一つになってるんだから、アルジェリアさまさまってなもんよ。
 占領されたアルジェリアには、フランスから白人が次々と送り込まれ、支配体制を盤石なものにしていった。彼らは「コロン」と呼ばれ、本国のフランス人と同じ権利を受けたんだな。一方で、アルジェリア人には市民権は与えられなかった。それでいて戦争の際にはフランス軍兵士として召し上げられたってんだからヒドイ話だぜ。

 ところで番長、さっき「白人」が送り込まれたと書いたな。実は、コロンにはフランス人以外の白人も相当多かったらしい。イタリアやスペインからの移民だったっていうのよ。もっとも、もともと宗教も同じだし、言語も似たり寄ったりだから、彼らがフランス化するのは時間の問題だったようだ。
 この時期のフランスには、青年男子が圧倒的に不足していた。ナポレオン戦争でみんな戦死しちまったからさ。名高い「外人部隊」がフランスに生まれたのもこの時期、1831年のことで、彼らの初舞台はアルジェリア侵略だった。

 コロンたちはさらに、アルジェリア人から土地を収奪、ブドウのプランテーションをはじめた。もちろんワインにするためだ。土地を奪われたアルジェリア人は失業し、単純労働力を欲していたフランス本国へとやむなく渡った。これがフランスにおけるアラブ系移民の発端だと言われている。


 さて、それから100年あまりの月日が流れる。
 このころのフランス人にとって、アルジェリアというのは生まれたときからフランス領だ。そういう歴史の深さ、距離の近さから、アルジェリアというのは単なる植民地ではなく、フランスにとっては不可分の領土となっていたのよ。
 100年の間にコロンの人口は増え続け、その数はなんと100万人に達した。
 この白人人口の多さこそが、その他の植民地とアルジェリアとを分ける最も大きな違いだ。当時のアルジェリア人は900万人ほどだったと言うから、どれだけ多いかわかるだろう。10人に1人だもんな。
 経済力を付けたコロンたちは、フランス本国の政治家や有力者と渡りを付け、一つの勢力を築いていた。
 コロンのアルジェリア人に対する差別意識というのは相当強かったらしい。両者は社会の中で交わることがなく、100年経っても混血はほとんど起きなかった。このへん、良し悪しはともかく、多数のメスティーソを生んだ中南米の旧スペイン・ポルトガル領とは全然違うところだな。

 第二次世界大戦が終わると、世界中の植民地で独立の機運が高まった。
 アルジェリアもまたしかりだ。フランスの統治下に入ってから1世紀が過ぎるというのに、アルジェリア人には市民権が与えられず、コロンの下で搾取され、不満がたまりにたまっていた。導火線に火がつくのを待つばかりの状況が続いていたわけだ。
 1954年、アルジェリア民族解放戦線(FLN)による武装闘争が始まる。フランスはこの独立運動を徹底して弾圧した。FLNと関連があるとみなせば裏付けがなくても集落を攻撃し、片っ端からアルジェリア人を逮捕した。FLNは大した武装もない貧弱な組織だったが、ゲリラ戦を得意とし、大いにフランス軍を手こずらせた。ベトナム戦争と同じような話だな。
 アルジェリアの独立運動は隣国のチュニジアとモロッコにも飛び火したんだが、フランスはこの2つの国に対し、56年に独立を認めている。ところが、アルジェリアに対しては手を緩めることがなかった。それくらいアルジェリアってのは本国と一体化してたってことだ。

 しかしFLNはあきらめない。戦闘は次第に泥沼化の様相を見せてくる。するとフランス国内でも、もういいじゃないか、独立を認めようという声が次第に高まっていくんだな。で、いやダメだとする強硬派との間で政争が起きる。このときの政府は両者の板挟みにあって動きが取れなくなっていた。
 業を煮やしたのが、当時アルジェリアに駐留していたフランス軍だった。その数50万人超。バーロー、オレたちゃ前線で命を賭けてんのに、本国がそんな弱腰でどう戦えってんだ。ならばオレたちの手で政権を執ってやるまでよとばかりに、フランス本国に対して反乱を起こした。手始めにコルシカ島を占領した。クーデターだ。
 そうなのよ。アルジェリア人独立の戦いは、ここへ来てフランス人同士の戦いへと転じちまったのよ。
 この反乱を、100万人のコロンたちは諸手をあげて歓迎。さらに、アルジェリアを統治し続けることがフランスには必要だとする本国の右翼もこの動きを指示した。

 駐留軍の狙いは、第二次大戦のヒーロー、シャルル・ド・ゴールを担ぎ出すことだった。ド・ゴールは保守派だから、FLNに対しても厳しく対処してくれるだろうと期待したわけだな。
 で、ド・ゴールはまんまと担ぎ出され、軍部の支持を背景に、新たに強大な権限を付与された大統領として政界に返り咲く。

 ところがド・ゴールは、アルジェリアの独立を認めてしまった。
 本国のフランス人の間に厭戦気分が強まっていたのが一つ。世界的に植民地の独立を認め、人権を認める動きが高まっていたことが一つ。さらに、やっかいなFLNを相手に植民地を維持するより、独立させた上で経済的に支配する方がトクだってな考えが実業界に持ち上がっていたことも、ド・ゴールの背中を強く押したと言われているぜ。
 このときド・ゴールの作った体制こそが、「第五共和制」といい、今もフランスに生き続ける政治システムだ。その意味では、フランスが世界に誇る共和制の礎をつくったのは、アルジェリアなのかもしれねえ。


 こうして1962年、7年間に及んだアルジェリア戦争は終わった。132年に及んだフランスのアルジェリア支配は幕を閉じた。
 だが、たくさんのひずみを残していった。

 100万人いたコロン。アルジェリアに残るか、「特権を持った外国人」としてフランス本国に戻るかを選ぶことになったが、コイツは事実上の一択問題。さんざんばら差別してきたアルジェリア人と今さらニコニコ肩を並べるわけにはいかない。大挙して本国に戻った。
 ところが、130年も前に国を出た人々だし、そもそもイタリアやスペインからの移民が多かったから、フランス本国には居場所がない。本土のフランス人からは「ピエ・ノワール」(「黒い足」の意)と呼ばれ、二級市民のごとく蔑視された。
 ちなみにこのピエ・ノワールという言葉は、その後数十年を経て「オレたちゃ引き揚げ者だぜ」というアイデンティティを表す言葉として、むしろ当人達の間で積極的に使われるようになる。アメリカでかつて蔑称だった「ブラック」という言葉が、今では積極的な意味になっているのと同じような現象だな。

 他方、アルジェリア人の中にも、フランス側、コロン側に付いた人たちがいた。独立戦争でもフランス側に立ち、フランスのために戦った。彼らは「アルキ」と呼ばれる。いざ戦争が終わってしまえば、アルジェリアでは裏切り者だ。当然フランス本国へ逃げようとしたんだが、5万~15万人はアルジェリア人達に虐殺されたらしい。
 命からがら逃げおおせた人々はおよそ9万人いたが、やはり居場所がない。フランスのために命を賭けた勇士と讃えられることもなく、兵営用の仮設キャンプへぶち込まれた。彼らは次第にアルキであることを隠すようになり、社会から姿を消していった。

 今でも、フランスに数多い有色人種の移民の中で、アルジェリア人移民に対する風当たりというのはとりわけ強い。
 アルジェリアはフランスのものだという右翼的な発想からの反発が一つ。元コロンたちの反発が一つ。さらに、アルジェリア独立戦争を通じてフランス人に10万人の犠牲者が出たということもある。まあ、アルジェリア人の死者は100万人を超えるそうだが。

 フランス政府は1999年まで、このアルジェリア戦争のことを、フランス国内における内戦だと位置づけていた。
 戦争末期の1961年10月17日、パリで警察によるアルジェリア人虐殺が起きた。当局による発表では、犠牲者はわずかに2人。実際には70~200人が殺害され、セーヌ川には多数の遺体が遺棄されたという。だが、この事件には長らく闇に葬られていた。公式に慰霊する碑が建てられたのは2001年のことだ。
 また、フランス政府は1960年から67年にかけて、アルジェリア領のサハラ砂漠で17回にわたって核実験をしているが、「核実験は安全で被害者は存在しない」と繰り返してきた。2009年になってようやく、その被曝者に対する補償が始まった。


 いや、まいったね。
 アルジェリアとの因縁ってのはフランスにとって、ノドに刺さった小骨みたいに、今でも消化しきれていないようだぜ。
 数ある植民地の中でもアルジェリアが特別だということは、知っておいてもいいんじゃねえかな。




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2010.04.28 (Wed)

同じ意味だぜ7つの言葉 移民国家フランス(2)

 まいったね。
 違う言葉が指す同じ意味には、まいったね。


 今回はアンタの語彙力を試させてもらうとしようか。


 ではまず、「シテ」。なんだかわかるかい。
 おう。パリの真ん中、ノートルダム大聖堂やらパリ警視庁やらがある地区のことをシテ島と呼ぶな。歴史は非常に古く、既に紀元前1世紀にはパリシイ族と呼ばれる人々が暮らしていた。これがパリという名の語源になったそうだ。
 そもそも「シテ」は「cite」(eは上にアクセント記号)と書く。英語で言えば「city」に該当するな。だから、一般に都市や町という意味を示す単語でもある。

 だが、文脈にもよるが、フツーにシテと言った場合、これは別の意味を指す。パリ郊外のボロい団地が建ち並ぶ地域、パリで生活する最貧困層の住む地域のことを、シテと呼ぶんだな。住んでるのは大方が移民だ。
 日本人が知らないのも当然、こんな地域のことはどのガイドブックにも載ってねえ。まかり間違って観光客が迷い込むようなことがあれば、身ぐるみはがされるのがオチだろうぜ。フランス人だってなかなか寄りつかねえところだ。
 移民流の呼び方では、語順をひっくり返して「テシ」となる。


 次。「ZEP」ってなんだ。
 レッド・ツェッペリンじゃないぜ。ライブハウスの名前でもねえ。
 「Zone d'education prioritaire」の略で、日本語にすれば「優先教育地区」となるかな。その名の通り、優先的に予算を付けたり教員を回したりする地区だ。
 と言っても、エリート校ってわけじゃねえぜ。むしろその正反対だ。学区内に貧しい家庭が多く、生徒の成績がひどかったり、落第や中退をする割合が高かったりする地域が選ばれる。

 このZEP、さっきのシテと、地域としては重なってくる。
 ZEP自体は、移民の数が多いから指定されるわけではない。生徒の学業成績、親の失業率、生活保護受給率、片親家庭の多さなどで決まる。
 だが、そうやって選ぶと移民の多く住む地域が自然とピックアップされてきちまうんだな。
 教室の中じゃ、誰も教師の言うことなんて聞きやしねえ。遅刻やサボりは日常茶飯事、校内暴力や少年犯罪も珍しくない。そういう荒れた地区だ。


 お次。「バンリュー・パリジェンヌ」って、わかるかい。
 パリジェンヌなんて単語が付いてると華やかな感じがするな、日本語の字面だけを眺めてると。新しい服のブランドか、はたまたケーキの名前なのかって。
 そうじゃねえ。パリジャン・パリジェンヌってのは、パリに住む男女を指し示す単語でもあるが、「パリの」という意味の形容詞でもある。男性名詞につく形容詞がパリジャン、女性名詞ならパリジェンヌになるんだな。
 で、バンリューとは郊外という意味。バンリュー・パリジェンヌとは、パリ郊外という意味だ。

 郊外という言葉自体は、都市の中心部とその郊外というように、位置関係を示す語に過ぎない。だが、いまのフランス語では、バンリューという単語には明らかに含意がある。上の二つと同様、移民の多く住む貧しい地域、治安が悪く犯罪の多発する地域、という意味合いだ。
 そもそも郊外ってのは、それなりに規模のある都市でなければ存在しない。人口1000人の村に郊外もヘッタクレもねえからな。パリ以外で言えばリヨンやマルセイユにもバンリューがある。そしてどこも同じカラーを持っている。家賃の安い団地が並んでいて、職にあぶれた肌の浅黒い移民たちが暇を持て余し、あんまり暇なもんで生活の糧を得るために犯罪に手を染めている、そういうイメージだ。


 だんだん見えてきたかな? 「HLM」はどうだい。
 こいつは「Habitation a loyer modere」の略。日本語に直訳すると「低家賃住宅」となる。これ、団地のことだ。
 単に団地と言えば、たとえば日本の団地なんか、特別に悪いイメージがつきまとうわけじゃねえよな。フランスでは違う。普通の家に住めない貧しい人たちが住むところ、という意味がもれなく付いてくる。住んでる人間の多くはやっぱり移民で、建ってる地域は町の中心部じゃねえことがほとんどだ。


 最後は3つまとめて行こう。「キャルティエ・ショー」「キャルティエ・ポピュレール」「キャルティエ・ソンシーブル」。
 キャルティエったって指輪で有名なカルチェじゃないぜ。quartierと書き、「地区」とか「界隈」といった意味だ。で、「ショー」は「暑い」、「ポピュレール」は「大衆的」、「ソンシーブル」は「敏感な・センシブルな」という意味になる。
 そう、これも全部、上の4つと同じような意味合い。移民が多く住む貧しい地域。マスコミなんかでそういう地域のことを報道するとき、まさか貧民街とは言えねえから、こういう呼び方をする。最近は「キャルティエ・ソンシーブル」が多く使われるようだな。


 ここまでに紹介した7つの言葉、意味はそれぞれに違いがある。ZEPは教育用語だし、HLMは住宅用語だ。
 だが、指し示す中身はみな同じ。フランスに住む人には、どれもだいたい同じようなニュアンスで受け取られる。
移民が住む貧民街、ってな。
 わかりやすい言葉で言い換えようか。「ゲットー」だ。


 前に書いたとおり、アラブやアフリカからの移民ってのは、1960年代前後を中心に、安価な単純労働力としてフランスに呼ばれてきた人たちだ。
 だが、当時っからパリには人が密集しててね。ヨソ者が住めるところなんてのは郊外、バンリューに掘っ建てるしかなかったんだな。とにかく数を押し込まなきゃならねえってんで、つくられたのは安普請の団地。それがHLMよ。
 日本で日雇い労働者がドヤ街に住むように、単純労働力の移民たちは都市郊外の家賃は安いが劣悪な環境で生活をさせられたわけだ。
 で、もともと給料は安く、誰もがしたがらねえ仕事をさせられた上に、不況になれば真っ先に首を切られる。そうなりゃ街はすさむさ。職の見つからねえ親父は息子をぶん殴り、息子は学校で教師をぶん殴る。だからZEPに指定されるわけだ。しまいにゃ学校を飛び出し、盗みにタタキ、果てはドラッグに手を染める。
 当然、世間の鼻つまみ者だ。だれもシテには、バンリューには、キャルティエ・ソンシーブルには寄りつかねえってわけよ。


 だが、考えてもみてくれ。もともとフランスに移民を呼んできたのは誰なんだ。自分たちのしたくねえ仕事を押し付けてたのは誰なんだ。不況だからハイさようならと仕事を取り上げたのは誰なんだ。
 フランスだよ。フランス人だよ。そりゃねえぜ。


 なあアンタ、なんだってフランスには、ゲットーを示す言葉が6つも7つもあるんだと思う?
 事態を直視してねえからじゃないかと、番長には思えてならねえのよ。
 そうやって言葉ばっかりイタズラに増やして、コトの本質から目をそらしてるんじゃねえかってな。

 このことばかりじゃねえ。
 たとえばフランスには、人種や民族別の統計が存在しない。差別を助長するからだそうだ。宗教別の統計もない。政教分離の原則に反するからだそうだ。だから、国内に何人のモロッコ人がいて、何人のユダヤ人がいるのか、何人のイスラム教徒がいるのかも、まったくわからない。
 これなんかも番長には、同様に現実を見据えていない現れのように思えてならねえぜ。


 いや、まいったね。
 フランスにはゲットーがある。しかも、大都市のまわりに山ほどある。まずはそれを認めるところから始めてもらいたいぜ。




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2010.04.26 (Mon)

なんなんだ日本のイメージ

 まいったね。
 意味不明な日本のイメージには、まいったね。


 フランスでもご多分に漏れず寿司はポピュラーな食い物となったが、おしなべてマズい。
 パリなんかには例外的にうまい店もいくつかあるが、例外は例外だ。多くの店は中国人あたりが経営していて、さらにフランス人の感覚にあうように味付けがされているから、まあ日本人の口にはあわない。カッチカチのシャリにうすら甘いサーモンとかな。
 おい、シャリにしょう油をべったり漬けて食うのはやめろ! 頼むから番長の前ではしてくれるな!


 とまあ、こういうのはよくある話なんだが。
 時に、どうリアクションしたものか困るような「日本」に出くわし、なんとも戸惑っちまうことがある。
 たとえばこんなのだ。



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 こちら、とある若者向け雑誌に紹介されていた「もみじ」という名の人形。



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 「福を呼ぶ日本人形」と説明書きにあるが、こんなの日本で見たことねえぞ。
 目もとといい着てる服といい、日本の伝統からはかけ離れた印象だな。

 じゃあさてどこの国だと問われると困るんだが。
 この記事によれば、超有名デパート「ボン・マルシェ」のサイトで売ってるってことらしい。ってことはちゃんとした商品なのかねえ。


 ま、それはまだいいよ。
 この菓子はどうだい。



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 とあるスーパーで売っていた、その名もズバリ「ジャポネ」というお菓子。
 ジャポネってのはもちろん、日本人とか日本語、あるいは「日本の」って意味の形容詞だ。
 ところがパッケージには「スイス・チョコレート」と書かれていて、それだけでも混乱をきたすんだが。



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 中身の菓子はこうだ。
 チョコレートクリームをクッキーではさみ、上はヘーゼルナッツ、下はチョコレートコーティングされている。
 まずかねえよ。むしろうまいよ。
 しっかし、これのどこがどう日本なんだ?
 日本らしさはどのへんで表現されてんだ?



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 原材料を見ても、砂糖、小麦粉、植物油、チョコレート、アーモンドなど。
 アズキや抹茶は入ってなかったぜ。


 いや、まいったね。
 ニセモノだとしても、似せる努力はしてほしかったところだぜ。




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