2010.07.28 (Wed)
消えない国境 アウシュヴィッツにて
まいったね。
枢軸国には、まいったね。
フランスでは5月、1ヵ月の間に祝日が4日ある。いわばプチ・バカンスだ。
うち2日はキリスト教関係の祝日で、もう一つが5月1日。メーデーで、これはヨーロッパだとたいていどの国でも祝日だな。労働者がみな休むので、この日ばかりはバスなど公共交通機関も全面運休になる、こともある。街の規模によるけどな。
で、最後の一つが5月8日。これ、なんだか知ってるかい?
第2次世界大戦の終戦記念日なのよ。
それぞれの町で式典が開かれる。終戦を祝い、戦没者を偲ぶわけだ。
フランス人と一緒に見に行った番長、お前の母国に同じような式はあるか、と尋ねられた。あるけど、軍隊が行進することは絶対にねえ。死者を弔うという意味の方が強い。日本は戦敗国だからなと、答えたわけだ。
そしたらだな、ツレが聞き返すのよ。「それ、どういう意味?」と。
耳を疑ったが、「第二次世界大戦で日本が負けた」ということがピンと来てない様子なんだな。ツレってのは数人いたんだが、どいつもこいつもがだ。
いやいや、日本はドイツ、イタリアと同盟を結んでいて、日独伊三国同盟締結は1940年、これテストに出るぞ。で、連合国と戦って。
そういやあ、フランスやイギリス、アメリカは連合国で、レザリエとフランス語では言うが、日本とドイツの方の連合は何て言うんだ? と尋ねたのよ。
知らない、と。
いや、このとき番長と一緒にいたフランス人たちがとりわけボンクラってわけじゃねえんだぜ。
これはちょっとした衝撃だったな。
ヨーロッパにおいて第二次大戦とはすなわちナチス・ドイツと周辺諸国との戦争で、日本がどうなったかなんて知ったことじゃねえんだ。
(ついでに言うと、イタリアは途中で枢軸国から抜けている)
連中にとって、終戦記念日は8月15日じゃねえのよ。5月にはもう、戦争は終わってるんだな。
こと第二次大戦とその直前の時期において、日本が世界史上で演じた役回りというのは結構なものだと思っていたんだが。
その場では聞けなかったが、日本が唯一の被爆国であること、まして憲法9条なんてものが存在していることなんて、知られてねえんだろうなあ。
ヨーロッパと日本の距離を、改めて感じた出来事だったぜ。
(後で調べたところ、ウィキペディアのフランス語版では、枢軸国は「アクス・ローマ・ベルリン・トーキョー」とされていた)
さて、そんなことがあってからしばらく後のこと。
ポーランドへ、アウシュヴィッツ強制収容所を見に行ってきた。
ヨーロッパにいる間にぜひ見ておかなきゃなあと前から考えてたのよ。

(ガス室で「大量生産」された遺体は、隣接する焼却炉で燃やされた)
大量殺人が行われたガス室、マットの原料とするために収容者から刈り取った髪の毛、人体実験がされていたことを示す資料など、生々しく見応えのある展示物が多数あったぜ。
番長は既に、だいぶ前のことではあるが他の収容所を見たことがあるし、「シンドラーのリスト」も見たし、あまり驚きはないかなと思っていたんだが、どうしてなかなか。
少しでも興味があるならぜひ訪ねてみるといいよ。見るのにたっぷり1日かかる、というのはガイドブックの常套句だが、誇張抜きでかかるぜ。
アウシュヴィッツは、広々としていてねえ。
どこか明るい雰囲気すら感じられたぜ。

(司令官室から見下ろした収容所群)
一つには、施設が巨大だからだろう。面積およそ200万平方メートル、200ヘクタール。東京ドーム42~43個分。
敷地の広大さに比べて、住居は極めて狭隘だった。狭い棚にわらを敷いただけの家畜小屋のようなところに、ピーク時には約14万人がすし詰めにされていたそうだ。
しかし、太陽がさんさんと降り注ぐ収容所跡は、鳥がさえずり、のどかそのもの。一面の芝生で、ピクニックに最適といった趣すらあった。

(第二アウシュヴィッツ、ビルケナウの一角。池の下には遺体を焼却した灰が埋められている)
もう一つには、見学者の数が多いということがある。特にグループ・ツアーが多い。
番長のような観光客もいたが、目に付いたのがポーランドの学生らしき一団。
ポーランド人は学生時代に、必ず一度はこの地を訪れるんだそうだ。大部分は真剣なまなざしで回っていたが、人数が多くなると、そりゃ緊張感のないヤツも出てくるよな。
一方では、ユダヤ人たちが涙を流しながら献花をしていて、当時と同じ時間が今も流れていることを感じさせられもしたぜ。
そんなアウシュヴィッツの展示物の中に、この施設での犠牲者数を示したパネルがあった。
ドイツ軍が資料を残さなかったため、正確な数はわかっていないらしいんだが、様々な研究がされ、犠牲者数を推定しているんだそうだ。
そこにあった数は、全体で130万人が殺害された、というものだった。
内訳が書いてあったぜ。国籍は様々ながら、ユダヤ人が110万人。
ということは、残りの20万人は別の人々ということになる。
ポーランド人が15万人。ロマ(ジプシー)が2万3000人。旧ソ連人が1万5000人。
ロマは当時、ユダヤ人同様に殲滅すべき人種とされていた人たちだ。旧ソ連人というのは、ほとんどがソ連軍の捕虜。
驚きだったのが、殺害されたポーランド人の多さだった。
大半は政治犯だが、第二次大戦におけるポーランド政治犯というのは、つまりナチス・ドイツの占領に反対したすべての人のことだ。
ポーランド人学生がアウシュヴィッツを訪れるのは、何も平和教育というお題目からではなく、この収容所こそが独立ポーランドの原点であり、ナチスに屈しなかったポーランド人の魂が眠る場所だから、というわけだな。
恥ずかしながら番長、はじめて知ったぜ。
ポーランド人は、こんなことを書いていることを知ったら、驚き、あきれるだろうな。そんなことも知らなかったのかと。アウシュヴィッツと言えばユダヤ人だけが犠牲になったように思い込んでいたのかと。
日本が第二次大戦で負けたことも知らない、なんて訳知り顔に憤慨していた番長も、結局は同じ穴のムジナだったというわけだ。
国際社会、と簡単に言うが。
確かに移動や通信手段の発達で、飛行機やインターネットのおかげで、世界の距離は縮まったと思うぜ。
EU域内にいると、パスポートチェックもなければ両替の手間もない。国境を越えたと意識することが、むしろ難しいほどだ。
しかし、消えない国境というのもまた、あり続ける。

(アウシュヴィッツへと収容者を運んだ列車の終着駅)
いや、まいったね。
その国境を克服しようとする努力と、妥協する寛容さが、共に必要なんだろうな。

枢軸国には、まいったね。
フランスでは5月、1ヵ月の間に祝日が4日ある。いわばプチ・バカンスだ。
うち2日はキリスト教関係の祝日で、もう一つが5月1日。メーデーで、これはヨーロッパだとたいていどの国でも祝日だな。労働者がみな休むので、この日ばかりはバスなど公共交通機関も全面運休になる、こともある。街の規模によるけどな。
で、最後の一つが5月8日。これ、なんだか知ってるかい?
第2次世界大戦の終戦記念日なのよ。
それぞれの町で式典が開かれる。終戦を祝い、戦没者を偲ぶわけだ。
フランス人と一緒に見に行った番長、お前の母国に同じような式はあるか、と尋ねられた。あるけど、軍隊が行進することは絶対にねえ。死者を弔うという意味の方が強い。日本は戦敗国だからなと、答えたわけだ。
そしたらだな、ツレが聞き返すのよ。「それ、どういう意味?」と。
耳を疑ったが、「第二次世界大戦で日本が負けた」ということがピンと来てない様子なんだな。ツレってのは数人いたんだが、どいつもこいつもがだ。
いやいや、日本はドイツ、イタリアと同盟を結んでいて、日独伊三国同盟締結は1940年、これテストに出るぞ。で、連合国と戦って。
そういやあ、フランスやイギリス、アメリカは連合国で、レザリエとフランス語では言うが、日本とドイツの方の連合は何て言うんだ? と尋ねたのよ。
知らない、と。
いや、このとき番長と一緒にいたフランス人たちがとりわけボンクラってわけじゃねえんだぜ。
これはちょっとした衝撃だったな。
ヨーロッパにおいて第二次大戦とはすなわちナチス・ドイツと周辺諸国との戦争で、日本がどうなったかなんて知ったことじゃねえんだ。
(ついでに言うと、イタリアは途中で枢軸国から抜けている)
連中にとって、終戦記念日は8月15日じゃねえのよ。5月にはもう、戦争は終わってるんだな。
こと第二次大戦とその直前の時期において、日本が世界史上で演じた役回りというのは結構なものだと思っていたんだが。
その場では聞けなかったが、日本が唯一の被爆国であること、まして憲法9条なんてものが存在していることなんて、知られてねえんだろうなあ。
ヨーロッパと日本の距離を、改めて感じた出来事だったぜ。
(後で調べたところ、ウィキペディアのフランス語版では、枢軸国は「アクス・ローマ・ベルリン・トーキョー」とされていた)
さて、そんなことがあってからしばらく後のこと。
ポーランドへ、アウシュヴィッツ強制収容所を見に行ってきた。
ヨーロッパにいる間にぜひ見ておかなきゃなあと前から考えてたのよ。

(ガス室で「大量生産」された遺体は、隣接する焼却炉で燃やされた)
大量殺人が行われたガス室、マットの原料とするために収容者から刈り取った髪の毛、人体実験がされていたことを示す資料など、生々しく見応えのある展示物が多数あったぜ。
番長は既に、だいぶ前のことではあるが他の収容所を見たことがあるし、「シンドラーのリスト」も見たし、あまり驚きはないかなと思っていたんだが、どうしてなかなか。
少しでも興味があるならぜひ訪ねてみるといいよ。見るのにたっぷり1日かかる、というのはガイドブックの常套句だが、誇張抜きでかかるぜ。
アウシュヴィッツは、広々としていてねえ。
どこか明るい雰囲気すら感じられたぜ。

(司令官室から見下ろした収容所群)
一つには、施設が巨大だからだろう。面積およそ200万平方メートル、200ヘクタール。東京ドーム42~43個分。
敷地の広大さに比べて、住居は極めて狭隘だった。狭い棚にわらを敷いただけの家畜小屋のようなところに、ピーク時には約14万人がすし詰めにされていたそうだ。
しかし、太陽がさんさんと降り注ぐ収容所跡は、鳥がさえずり、のどかそのもの。一面の芝生で、ピクニックに最適といった趣すらあった。

(第二アウシュヴィッツ、ビルケナウの一角。池の下には遺体を焼却した灰が埋められている)
もう一つには、見学者の数が多いということがある。特にグループ・ツアーが多い。
番長のような観光客もいたが、目に付いたのがポーランドの学生らしき一団。
ポーランド人は学生時代に、必ず一度はこの地を訪れるんだそうだ。大部分は真剣なまなざしで回っていたが、人数が多くなると、そりゃ緊張感のないヤツも出てくるよな。
一方では、ユダヤ人たちが涙を流しながら献花をしていて、当時と同じ時間が今も流れていることを感じさせられもしたぜ。
そんなアウシュヴィッツの展示物の中に、この施設での犠牲者数を示したパネルがあった。
ドイツ軍が資料を残さなかったため、正確な数はわかっていないらしいんだが、様々な研究がされ、犠牲者数を推定しているんだそうだ。
そこにあった数は、全体で130万人が殺害された、というものだった。
内訳が書いてあったぜ。国籍は様々ながら、ユダヤ人が110万人。
ということは、残りの20万人は別の人々ということになる。
ポーランド人が15万人。ロマ(ジプシー)が2万3000人。旧ソ連人が1万5000人。
ロマは当時、ユダヤ人同様に殲滅すべき人種とされていた人たちだ。旧ソ連人というのは、ほとんどがソ連軍の捕虜。
驚きだったのが、殺害されたポーランド人の多さだった。
大半は政治犯だが、第二次大戦におけるポーランド政治犯というのは、つまりナチス・ドイツの占領に反対したすべての人のことだ。
ポーランド人学生がアウシュヴィッツを訪れるのは、何も平和教育というお題目からではなく、この収容所こそが独立ポーランドの原点であり、ナチスに屈しなかったポーランド人の魂が眠る場所だから、というわけだな。
恥ずかしながら番長、はじめて知ったぜ。
ポーランド人は、こんなことを書いていることを知ったら、驚き、あきれるだろうな。そんなことも知らなかったのかと。アウシュヴィッツと言えばユダヤ人だけが犠牲になったように思い込んでいたのかと。
日本が第二次大戦で負けたことも知らない、なんて訳知り顔に憤慨していた番長も、結局は同じ穴のムジナだったというわけだ。
国際社会、と簡単に言うが。
確かに移動や通信手段の発達で、飛行機やインターネットのおかげで、世界の距離は縮まったと思うぜ。
EU域内にいると、パスポートチェックもなければ両替の手間もない。国境を越えたと意識することが、むしろ難しいほどだ。
しかし、消えない国境というのもまた、あり続ける。

(アウシュヴィッツへと収容者を運んだ列車の終着駅)
いや、まいったね。
その国境を克服しようとする努力と、妥協する寛容さが、共に必要なんだろうな。

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戦争は勝っても負けても悲惨さしか残りませんよね。
>5月にはもう、戦争は終わってるんだな。
確か、日本も3月にはアメリカに終戦の打診をしていたとか?
そうなると、数ヵ月後の5月終戦は辻褄が合いますね。
なのに、その後日本には原爆が打ち込まれているのですよね・・・・。
作ってしまった原爆のテストをしたのではないか?とかいろんな
話が出てきていますが、どちらにしても、あってはいけない事。
一体、アメリカ側で何が有ったのかをオープンにして欲しいですよね。
戦争って、国というよりも、宗教色の方が濃いような・・。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教・・・・・・。世代を超えた因縁がまだ
有るのでしょうか?しかし、ほとんど仏教徒の日本が何故?
日本は昔ユダヤ難民に一時滞在のビザを出して助けた
事が有るようです。(杉原チウネ氏 命のビザは有名ですね)
今はほとんどが世界に広がって行かれたようですが。
それとも、長崎などのクリスチャンが狙われたのか?
分かりません。
しかし、何か問題が有るのであれば、考える力のある人間同士
負の部分を責め合うのではなく、ではどうすればお互いが
うまく行くのか、それを真剣に考えて欲しいですよね。
莫大な軍事費、それが人の暮らしを良くする為に使われたら
またそのなかから天才達が出てきて・・・・とどんどん正の
スパイラルに成り得るのに。
考え方を少し変えるだけなのに、どうして負のスパイラルを
繰り返すのでしょうか?やはり、問題は教育ですよね。
番長、ほとんどの良民は分かっているのですよね。
ただ、一部の人達がどういうわけか、おかしな方向に人を
操る。その力が何なのか?ですよね・・・・。
武器や戦後特需で儲けている人達、そういう人達に
方向転換してもらわなければ、大義名分で何も変わらない
のかも。
あ、そうか、そうなると、宗教さえもが利用されている可能性が
有るのかもね・・・・・・。
>5月にはもう、戦争は終わってるんだな。
確か、日本も3月にはアメリカに終戦の打診をしていたとか?
そうなると、数ヵ月後の5月終戦は辻褄が合いますね。
なのに、その後日本には原爆が打ち込まれているのですよね・・・・。
作ってしまった原爆のテストをしたのではないか?とかいろんな
話が出てきていますが、どちらにしても、あってはいけない事。
一体、アメリカ側で何が有ったのかをオープンにして欲しいですよね。
戦争って、国というよりも、宗教色の方が濃いような・・。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教・・・・・・。世代を超えた因縁がまだ
有るのでしょうか?しかし、ほとんど仏教徒の日本が何故?
日本は昔ユダヤ難民に一時滞在のビザを出して助けた
事が有るようです。(杉原チウネ氏 命のビザは有名ですね)
今はほとんどが世界に広がって行かれたようですが。
それとも、長崎などのクリスチャンが狙われたのか?
分かりません。
しかし、何か問題が有るのであれば、考える力のある人間同士
負の部分を責め合うのではなく、ではどうすればお互いが
うまく行くのか、それを真剣に考えて欲しいですよね。
莫大な軍事費、それが人の暮らしを良くする為に使われたら
またそのなかから天才達が出てきて・・・・とどんどん正の
スパイラルに成り得るのに。
考え方を少し変えるだけなのに、どうして負のスパイラルを
繰り返すのでしょうか?やはり、問題は教育ですよね。
番長、ほとんどの良民は分かっているのですよね。
ただ、一部の人達がどういうわけか、おかしな方向に人を
操る。その力が何なのか?ですよね・・・・。
武器や戦後特需で儲けている人達、そういう人達に
方向転換してもらわなければ、大義名分で何も変わらない
のかも。
あ、そうか、そうなると、宗教さえもが利用されている可能性が
有るのかもね・・・・・・。
MIMI |
2010.07.28(水) 13:20 | URL |
【コメント編集】
番長、こ、怖い事実が判明。
>>日本への原爆投下を承認した第33代アメリカ合衆国大統領、ハリー・S・トルーマン
の誕生日は
な、
な、
なんと・・・・・
5月8日!!!!!!!
彼は、自分の誕生日を世界の皆が喜んでいるとか
思っていたのでしょうか?わざとその日を選んだのか、
偶然なのか?
しかし、中途半端な8日などを終戦日にするって事は
やはり、その日を選んだ可能性が高いのでは?
そして、何故、その後に日本に2発の原爆が落とされて
いるのでしょうか?ドイツも終戦調印していたとか?
世界がその日(ロシアは翌日の9日)を終戦の日として
いるのに、日本だけ戦争が続いたのはますます不可解
ですよね。
>>日本への原爆投下を承認した第33代アメリカ合衆国大統領、ハリー・S・トルーマン
の誕生日は
な、
な、
なんと・・・・・
5月8日!!!!!!!
彼は、自分の誕生日を世界の皆が喜んでいるとか
思っていたのでしょうか?わざとその日を選んだのか、
偶然なのか?
しかし、中途半端な8日などを終戦日にするって事は
やはり、その日を選んだ可能性が高いのでは?
そして、何故、その後に日本に2発の原爆が落とされて
いるのでしょうか?ドイツも終戦調印していたとか?
世界がその日(ロシアは翌日の9日)を終戦の日として
いるのに、日本だけ戦争が続いたのはますます不可解
ですよね。
MIMI |
2010.07.28(水) 13:33 | URL |
【コメント編集】
日本はヨーロッパに直接は参戦してないから、フランスの人の印象に残ってないのかもしれないですね。
第二次大戦で日本はアメリカ本土爆撃(真珠湾攻撃など)をやりましたけど、そのことがアメリカ国民の記憶に今だ残ってるのとは対照的な気もしますね。
やっぱ戦争の記憶ってのは、時間が経っても風化が難しいものだと思いますよ。
第二次大戦で日本はアメリカ本土爆撃(真珠湾攻撃など)をやりましたけど、そのことがアメリカ国民の記憶に今だ残ってるのとは対照的な気もしますね。
やっぱ戦争の記憶ってのは、時間が経っても風化が難しいものだと思いますよ。
あ |
2010.07.28(水) 14:59 | URL |
【コメント編集】
番長、こんにちは!
海外では必ず何かしらの時点で、「え、そんなことも知らないの」と内心思うことがありますよね(我々の場合、日本について)。番長の言われるように、逆に我々が彼らについて無知な場合もあるかもしれません。相対的には、近現代の欧米中心の価値観で、日本やアジアは欧米に向いてある程度のアンテナを伸ばしている反面、彼らの日本へのアンテナは貧弱な感が否めません。これは日本がもっと情報発信の力を持つべく努力すべきなのかもしれません。もちろん、彼らのためにというよりは我々自身のために。
アウシュビッツに行かれたなんて凄いなぁ。僕はまだ広島にも行けていないので、両方に行ってみたいです。
「国境を克服しようとする努力と、妥協する寛容さが、共に必要」なんですね。
20世紀は大量殺戮の時代でした。戦争に関する歴史認識を各国間で整合させるのは難しいことが多いようですが、外堀から埋めるべく、少なくとも過去の大量殺戮を忘れないことと反省、大量殺戮はいかなる理由があっても絶対悪である、という共通認識で一致を目指すべきだと思います。(アメリカだって原爆に関しての「反省」とか「悪」というのは認めていませんからね。まあしかし、そういう個別具体的なことの前の共通認識として。)(もちろん個別殺人はOKということではありませんが。)
番長は名古屋と縁がある方なんですね。僕も名古屋は縁があります。母が名古屋出身で、熱田神宮近くの大瀬古町の家へ、いとこやおじいちゃん、おばあちゃんに会いに、子供の頃は毎年行っていました。帰ってきた頃は言葉が名古屋弁になって(笑)。最近行ったのは、おじいちゃんが亡くなった2年前。山本屋の味噌煮込うどんも食べてきましたが、以前よりも麺が柔らかくなったような気がしました。気のせいでしょうか?昔はおばちゃんがたまに亀屋のどら焼きを送ってくれた時は嬉しかったなあ。名古屋は大好きです。
番長はあちこちへ旅行されているようですから、ぜひまた国内外の旅行記を聞かせてください。『番長VS SNCF』でしたっけ?死闘が印象深いです(笑)。
海外では必ず何かしらの時点で、「え、そんなことも知らないの」と内心思うことがありますよね(我々の場合、日本について)。番長の言われるように、逆に我々が彼らについて無知な場合もあるかもしれません。相対的には、近現代の欧米中心の価値観で、日本やアジアは欧米に向いてある程度のアンテナを伸ばしている反面、彼らの日本へのアンテナは貧弱な感が否めません。これは日本がもっと情報発信の力を持つべく努力すべきなのかもしれません。もちろん、彼らのためにというよりは我々自身のために。
アウシュビッツに行かれたなんて凄いなぁ。僕はまだ広島にも行けていないので、両方に行ってみたいです。
「国境を克服しようとする努力と、妥協する寛容さが、共に必要」なんですね。
20世紀は大量殺戮の時代でした。戦争に関する歴史認識を各国間で整合させるのは難しいことが多いようですが、外堀から埋めるべく、少なくとも過去の大量殺戮を忘れないことと反省、大量殺戮はいかなる理由があっても絶対悪である、という共通認識で一致を目指すべきだと思います。(アメリカだって原爆に関しての「反省」とか「悪」というのは認めていませんからね。まあしかし、そういう個別具体的なことの前の共通認識として。)(もちろん個別殺人はOKということではありませんが。)
番長は名古屋と縁がある方なんですね。僕も名古屋は縁があります。母が名古屋出身で、熱田神宮近くの大瀬古町の家へ、いとこやおじいちゃん、おばあちゃんに会いに、子供の頃は毎年行っていました。帰ってきた頃は言葉が名古屋弁になって(笑)。最近行ったのは、おじいちゃんが亡くなった2年前。山本屋の味噌煮込うどんも食べてきましたが、以前よりも麺が柔らかくなったような気がしました。気のせいでしょうか?昔はおばちゃんがたまに亀屋のどら焼きを送ってくれた時は嬉しかったなあ。名古屋は大好きです。
番長はあちこちへ旅行されているようですから、ぜひまた国内外の旅行記を聞かせてください。『番長VS SNCF』でしたっけ?死闘が印象深いです(笑)。
triolet |
2010.07.28(水) 22:01 | URL |
【コメント編集】
お久しぶりです、番長。
アウシュヴィッツとビルケナウ、わたしは2月に訪問しました。
今回の番長さんのお写真を見て、
冬に行くとまた、夏とは違った雰囲気があそこにはあるんじゃないかと思いました。
実際にあそこで暮らすという雰囲気を、できるだけ想像できるようにしたいと、訪問の前にプリモ・レーヴィの体験記を読んでいったのも覚えています。
時間もあり、キャンプの端から端まで歩き、「囚人たち」の「部屋」の中を、豪雪の中、ゆっくり見ていったんですが、
ポーランドの冬のあの寒さを、あんな場所で、ガス室の恐怖に怯えながらすごさなければいけない、ということを考えただけでも、吐き気を催しました。
いかなる理由においても、戦争は肯定されてはいけない。
そんなことを、改めて感じました。
ところで
番長がフランス人の原爆についての意識について少し言及されていましたが、
フランス人の原爆・ヒロシマ・ナガサキに対する関心は意外に高いほうなんじゃないかと思います。
何年か前のヒロシマでの原水爆禁止大会でも、何十人という数のフランス人学生(確かプロヴァンス大学からだったと思います)が参加したそうです。
私の友人も、沖縄に米軍基地がまだあり続けることは知らなくても、ヒロシマ・ナガサキの悲劇は知っている方が殆どでした。
私は詳しい統計などはわからないので、そこに裏付けがあるとは言えませんが。。
その割に、原発にたいする意識は低いというのが、なんとも不可思議なんですがね。
いつもながら長くなってすみません!
アウシュヴィッツとビルケナウ、わたしは2月に訪問しました。
今回の番長さんのお写真を見て、
冬に行くとまた、夏とは違った雰囲気があそこにはあるんじゃないかと思いました。
実際にあそこで暮らすという雰囲気を、できるだけ想像できるようにしたいと、訪問の前にプリモ・レーヴィの体験記を読んでいったのも覚えています。
時間もあり、キャンプの端から端まで歩き、「囚人たち」の「部屋」の中を、豪雪の中、ゆっくり見ていったんですが、
ポーランドの冬のあの寒さを、あんな場所で、ガス室の恐怖に怯えながらすごさなければいけない、ということを考えただけでも、吐き気を催しました。
いかなる理由においても、戦争は肯定されてはいけない。
そんなことを、改めて感じました。
ところで
番長がフランス人の原爆についての意識について少し言及されていましたが、
フランス人の原爆・ヒロシマ・ナガサキに対する関心は意外に高いほうなんじゃないかと思います。
何年か前のヒロシマでの原水爆禁止大会でも、何十人という数のフランス人学生(確かプロヴァンス大学からだったと思います)が参加したそうです。
私の友人も、沖縄に米軍基地がまだあり続けることは知らなくても、ヒロシマ・ナガサキの悲劇は知っている方が殆どでした。
私は詳しい統計などはわからないので、そこに裏付けがあるとは言えませんが。。
その割に、原発にたいする意識は低いというのが、なんとも不可思議なんですがね。
いつもながら長くなってすみません!
chiha |
2010.07.28(水) 23:23 | URL |
【コメント編集】
ご無沙汰しております、番長さんお元気そうで何よりです。あのー、アンネの日記ってありますよね。あれは生き延びたアンネの父の捏造物だとする意見もあるんですよね。現存するアンネ本人の筆跡と、あの日記の原稿の筆跡を比べると完全に別物、全然違うとか。心理学者の中には、10代前半の女子の心理からは離れた内容だとする意見もあるとか。私も活字中毒者ですんで子供の頃読んだのですが、違和感を感じる部分もあったんです。何かこうおじさんが若い女の子の心理を無理に想像して書いてませんか?みたいなね。(まあただ私がアンネの気質を把握出来ないだけかもしれませんが)アンネの父が、晴れて自由の身になった時に、ヤケを起こして一発当ててやろうと思ったのかもしれないとか、色々考えます、ハイ。余計な話をすみません。(あと、ユダヤ系でなくてアーリア系でも、例えば同性愛者なんかだとガス室行きだったみたいですよね。優生学の観点から見てだそうです)
くらら |
2010.07.29(木) 09:36 | URL |
【コメント編集】
はじめまして。最近番長さんのブログを発見して一気にバックナンバーまで読みました。番長はこう考えるぜ!がはっきりしてて痛快です。
日本の終戦記念日が韓国では光復節(独立記念日)として祝われるのを知ったのは
かなり前でしたが、正直なところショックでした。
戦争の決着も国によって見方が相当に違うことを身近に知るきっかけになりました。
第2次大戦時のフランス国民はドイツと戦わねばならないうえに
フランス人の中のドイツ協力者とも戦うという二重の戦争をしていたので
勝った連合国の一員とはいえ
後遺症は日本と違う形で深く残ったのではないかと思います。
それにしてもフランスの終戦記念日では軍隊が行進するのですか?
7月14日は分かるのですがねぇ。
私はたまに自衛隊の車両が走ってるのに出くわすだけで
ビクっとする軍事アレルギーぽい日本人なので
5月8日にフランスにいたら挙動不審になるかもしれません。
空港や駅でもどきどきしそうです。
日本の終戦記念日が韓国では光復節(独立記念日)として祝われるのを知ったのは
かなり前でしたが、正直なところショックでした。
戦争の決着も国によって見方が相当に違うことを身近に知るきっかけになりました。
第2次大戦時のフランス国民はドイツと戦わねばならないうえに
フランス人の中のドイツ協力者とも戦うという二重の戦争をしていたので
勝った連合国の一員とはいえ
後遺症は日本と違う形で深く残ったのではないかと思います。
それにしてもフランスの終戦記念日では軍隊が行進するのですか?
7月14日は分かるのですがねぇ。
私はたまに自衛隊の車両が走ってるのに出くわすだけで
ビクっとする軍事アレルギーぽい日本人なので
5月8日にフランスにいたら挙動不審になるかもしれません。
空港や駅でもどきどきしそうです。
karenard |
2010.07.29(木) 10:38 | URL |
【コメント編集】
番長は逆に、ベルリンの壁はあった当時には行ってねえんだよなあ。当時はあの壁が土産物になってもてはやされてたよなあ。今やソ連なんて言葉も知らねえ人は多いんだろうな。
フランス番長 |
2010.07.29(木) 19:04 | URL |
【コメント編集】
MIMIさん、押忍! 8月と言えばNHKなんかが戦争特番を流す季節だよな。日本では未だに戦争と言えば第二次大戦のことを指すのが普通だが、フランスも含めて他の多くの国ではあの後もいくつもの戦争を経験してるんだよな。とは言え、やはり二つの大戦ってのはヨーロッパ人にとっては格別の思いがあるものらしい。自分たちの住んでいるところが焦土になったわけだからな。今のところ世界はそこそこ安定してはいるんだろうが、イラクだアフガニスタンだの現状を見るに、戦禍に怯えず暮らせることがいかに大事なことかを忘れちゃいけねえんだ、と思わされるよな。
フランス番長 |
2010.07.29(木) 19:10 | URL |
【コメント編集】
うん、太平洋戦争ってのはどうしても日米間の話ってことで縁遠いんだろうな。あの時期、日本軍と仏軍はインドシナで戦火を交えているはずだが、フランス的にはそれどころじゃなかったんだろうし。知らなくてもしょうがねえんだろうが、ショックはショックだったねえ。
フランス番長 |
2010.07.29(木) 19:12 | URL |
【コメント編集】
そうだねえ、フランスに来て思ったのは、日本人ってのも案外ヨーロッパのことは知っているようで知らねえな、っていうことかな。偏ってるんだよな。たとえばフランスの歌手って言われて誰を思いつくかって、カーラ・ブルーニはともかく、フツーは誰も思いつかないよな。ミッシェル・ポルナレフとかアダモとかくらいでさ。フランス映画だってアメリくらいしか知らねえ。まあでも、少なくとも世界史で言えば、日本人はカール大帝のことや英仏戦争、あるいはナポレオンのことなんかはよーく知ってるもんな。じゃあフランス人が徳川家康について知ってるかといえば、そんなのがいたらマニアだわな。おしなべて西洋人ってのは日本の近現代史に関する知識は相対的に乏しいように感じることが多いぜ。誰かが言ってたが、歴史ってのは歴史家がつくるものだってな。勝てば官軍負ければ賊軍ってんじゃなく、戦争を起こしたものの罪を自国であるとなしにかかわらず客観的に見る視点がほしいとこだよな。ところで、名古屋に関しちゃちょっとここでは書けないことがあるんで、後ほどミクシィでメッセージを送らせてもらうぜ!
フランス番長 |
2010.07.29(木) 22:27 | URL |
【コメント編集】
うーむ、冬のアウシュヴィッツってのはもっと、イメージに近い灰色の世界が広がってるんだろうねえ。夏は夏でものっすごく暑くて、こんなとこでロクな食い物もなく働かされたんじゃ熱中症どころの騒ぎじゃねえな、と思ったぜ。さてフランス人の原爆に対する関心なんだが。うーん、なんかテレビでドキュメンタリー映画をやってるのは見たことあるし、アメリカなんかに比べれば高いのかもしれねえな。しかし、確かになんだって原爆に対してはああ無関心なのかねえ。今度はアルジェリアにも作るらしいが、あの国ではアルカイダ系の組織が公然と活動してる。テロの標的になるってことは考えねえのかな。ま、輸出産業として大事に育てようってことのようだがな
。
。
フランス番長 |
2010.07.29(木) 23:00 | URL |
【コメント編集】
ほう、アンネの日記にそんな話があるのかい。そいつはちっとも知らなかったねえ。ていうかそもそもアンネの日記自体を読んだことがねえが……。アムステルダムにあるアンネの家ってとこにはずーっと前に行ったことがあるぜ。随分狭いところで、こんなところに隠れ住んでいたのかと想像したもんだったなあ。ま、ひょっとしてあの日記がおっさんによって書かれたものだったとしたら、そいつは興ざめだねえ。
フランス番長 |
2010.07.29(木) 23:03 | URL |
【コメント編集】
ビヤーンブニュだぜ。番長の記事を褒めていただき恐縮よ。確かにフランスにとって第二次大戦ってのは特別なものらしくてね。トラウマ的なものになってるってな分析もあるくらいだぜ。実際、当時ナチスに協力していた政権のことをヴィシー政府というが、そこでのことってのは誰も触れなかったりするからな。それと、占領期の対独レジスタンス活動ってのは誇張されすぎていて、実際にはさほどの活動はなかったとする見方もある。軍隊の行進だが、まあ革命記念日の行進みたいに派手なもんじゃねえが、軍服をビシッと決めた兄ちゃん姉ちゃんが行進することには変わりねえよ。非常に儀式的だがな。
フランス番長 |
2010.07.29(木) 23:36 | URL |
【コメント編集】
アタイも実はアウシュヴィッツに行ったことがあるんだよ。10年ほど前だがな。
冬だったので、荒涼としていて、見学者はほとんどおらず、なんとも寒々としていたたんだが・・・
夏はまた、全然雰囲気が違うんだなぁ。。。って、変なところで感心しちまったぜ。
ポーランド人の友達と一緒に訪問したんだが、その中のうちの一人のおじいさんは何ヶ月かアウシュヴィッツに収容されていたらしい。しかし、亡くなるまで、どんな目にアウシュヴィッツであったのか、決して話さなかったんだそうだ。どんな具体的な事実を聞くよりも、心にずっしりのしかかったねぇ。。。
シンドラーのリストなど、一連のアウシュヴィッツものの映画については、収容者を一番助けたのもポーランド人であるはずなのに、そのことが描かれている映画はほとんどなく、むしろ、ポーランド人は無関心な傍観者か、かえってナチスに協力するように描かれていることが、地元民としては不満だっていってたっけな。
ところで、番長。
「夜と霧」って本は読んだことあるかい?
アウシュヴィッツから生還した心理学者が、極限状態の人間に置かれた心理について分析する話なんだが・・・深い本だったよ。
また、ぜひ時間のあるときにでも、良かったら読んでみてくれよな!
冬だったので、荒涼としていて、見学者はほとんどおらず、なんとも寒々としていたたんだが・・・
夏はまた、全然雰囲気が違うんだなぁ。。。って、変なところで感心しちまったぜ。
ポーランド人の友達と一緒に訪問したんだが、その中のうちの一人のおじいさんは何ヶ月かアウシュヴィッツに収容されていたらしい。しかし、亡くなるまで、どんな目にアウシュヴィッツであったのか、決して話さなかったんだそうだ。どんな具体的な事実を聞くよりも、心にずっしりのしかかったねぇ。。。
シンドラーのリストなど、一連のアウシュヴィッツものの映画については、収容者を一番助けたのもポーランド人であるはずなのに、そのことが描かれている映画はほとんどなく、むしろ、ポーランド人は無関心な傍観者か、かえってナチスに協力するように描かれていることが、地元民としては不満だっていってたっけな。
ところで、番長。
「夜と霧」って本は読んだことあるかい?
アウシュヴィッツから生還した心理学者が、極限状態の人間に置かれた心理について分析する話なんだが・・・深い本だったよ。
また、ぜひ時間のあるときにでも、良かったら読んでみてくれよな!
フラン女番 |
2010.07.31(土) 01:45 | URL |
【コメント編集】
フラン女番さん、押忍! 夏のアウシュヴィッツってのも、これはこれで寒々しいもんだぜ。気温は間違いなく高いんだがなあ。ところでご推薦の「夜と霧」。恥ずかしながら知らなかったぜ。戦後65年が過ぎ、記憶も薄れ行く中ではあるが、そういう事実があったということを忘れちまっちゃあいけねえよな。是非読ませてもらおうと思うぜ。ありがとよ!
フランス番長 |
2010.07.31(土) 10:44 | URL |
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勉強になりました。アウシュビッツにも行ってみたかったのですが何せ遠くて。
ベルリンの壁だけは89年の消滅する前に見に行きましたが。